立体をからかうアイスピック 〜『ピアッシング』というゲーム  

村上龍の原作小説をアメリカインディー期待の新鋭ニコラス・ペッシェ監督が映画化した。刺したいのか、殺したいのか、アイスピックに取り憑かれた男リードをクリストファー・アボットが、生きたいのか、死にたいのか、ハルシオンの波間に漂う女ジャッキーをミア・ワシコウスカがそれぞれ演じている。
舞台は存在しないニューヨーク、超高層ビルのネオンが均一に瞬く人工の大都会。いたずらに誤った、運命を踏み外した二人が演じる一夜の猿芝居。

 

サイコホラー、との触れ込みだが、二人の狂気はありきたりでありふれ、どこにでも転がっているたちのものに過ぎない。内に抱えたままやり過ごすか、取りこぼして外部に表出するか、たったそれだけの、あるかなきかの境界が狂気と呼ばれていることに、われわれはとっくに気づいている。だから実のところ、この映画はサイコでもホラーでもない。平凡なサイコが特別なホラーを夢見た挙句、うっかり実現してしまう刺激的なコメディである。
そのように作られているところに『ピアッシング』の独自性が発見されよう。ある種の品格と言い換えてもいい。

 

品格あるたわむれ/血塗られた惨劇
この二つは迷路のスタートとゴールのようなもので、あきらめず根気よくルートを辿れば、道は繋がる。繋がってしまう。われわれはふだん、いかなるルートも通じることがないよう、指先で道をなぞりたくなる誘惑を遠ざけつつ、懸命に探索をあきらめている。もしリードとジャッキーを正気から隔てるものがあるとすれば、探索を断念できない誠実さだろう。望まれぬ誠実が肩こりのように居着いてしまったこころの状態を、精神医学ではトラウマと呼ぶ。
しかしスタート地点ではたしかにたわむれ、ゲームであった。ゴールを目指す途上においてさえ、実はそうなのだ。
異常なまでにスタイリッシュな部屋やホテルの内装、絵画的に企まれた画面構成、陰惨さをからかうような音楽。そして、傷ついた二人を運ぶタクシー(イエローキャブ?)やホテル備え付けの電話、タイトルクレジットなどに見られる強烈な黄色の色彩。すべての要素が反リアリズムのゲームとしての映画を強調する。
現実のニューヨークの風景にミニチュアセットを折り混ぜながら映される巨大ビル群。細胞の集合体のようなマンションの全景からズームアップしてリードの住む一室にカメラが吸い込まれていく冒頭はヒッチコック、いやむしろヒッチコックに取り憑かれたデ・パルマを思わせる(画面を二分割して男女の様子を同時に捉えるこれみよがしの技法など、まさに!)が、均一に並んだ窓窓をスムースな移動撮影によって延々と映し出すオープニング/エンドクレジットには、“無機質で人工的な都会”というおきまりの表象を超えたなにかが宿っている。飽くことなく上昇を続けるカメラの動きを目で追ううち、われわれはふと疑念に襲われる。ひょっとするとこのビルは、いつまでもどこまでも、無限に連続しているのではないか?終わりない循環がもたらす目まいは、エッシャー宇宙における遊戯的な視覚の快楽。
このマニエリスティックな空間に、滑稽で人間的なふるまいが現れ出ることがおもしろい。計画を細かくメモし、女にクロロホルムを嗅がせアイスピックで刺し殺す練習をするリード、そのくせ、ちっともうまくいかず噛み合わない二人のやりとり。半裸でふらふら部屋から出てきたSM嬢を全力で走りこんで押し戻そうとするアクション。はっきり妄想幻聴として殺意を煽り立てる超自我が、妻や幼いわが子、ホテルのフロント係に憑依する演出。やってることはホラーでも、コント的な軽みが常に漂う。
音楽の趣味も変わっている。陰惨なシーンにあえて陽気なポップスを流すのは異化効果を狙うホラー映画の常套手段だが、それとも違う。「イパネマの娘」なんてのは普通じゃない。そもそも、音量が上下する感覚が不思議で、“どこから聞こえているのかわからない”。例えば、なんらかの曲がインしてきて一定の音量で鳴っていれば、観客は無意識に「これは映画の外から聞こえているBGMだ」と理解するだろう。一方、駐車場に停車した黒塗りのバンをカメラが捉え、そこにドゥンッドゥンッ、低いベース音が響いているシーンを想像してほしい。続いてカメラが車中を映し出すと、途端に音量は跳ね上がり爆音のヒップホップが流れる。この場合には「なるほどさっきのは車から漏れ出る音だったんだな。で、これは映画の中で実際に聞こえている音楽なのだ」と気付くはずだ。効果音と具体音の違い、とでも言おうか。ことさら観客に意識されることはなくても、音楽に鋭敏な作り手は両者の特性をよく認識した上で、時に従い、時に裏切る。そこには作法や美学が厳然とあるのだ(余談だが、少し前話題になったホラー映画『クワイエット・プレイス』を僕が評価しない理由は、ひとつにはこうした作法がまるでなっちゃいないことによる)。しかるに、『ピアッシング』はどうか?なにかしらの美学に基づいた音楽選択・設計がされていることに間違いはなさそうだ。ただし、音楽を出し入れするタイミングや音量の上下が独特なあまり、効果音楽と具体音楽の境界が曖昧になっている。結果として人工的に装われた雰囲気が生まれている。
黄色はヒトを狂わせる色。ゴッホのひまわりの色であり、『キル・ビル』の、ダリオ・アルジェントの、70年代のジャーロ映画の色だ。ジャーロとはイタリア語の黄色であり、暴力的なパルプ小説の表紙が黄色をしていたことに由来する。オープニングで流れる曲を聞いて「すわ、ゴブリン!?」と思ったらゴブリンはエンディング曲の方で、前者はとあるジャーロ映画のテーマソングなのだそう。既存の曲ばかりを使用することは、先行作品へのリスペクトであるのはもちろん、つくられたものとたわむれる遊戯精神でもあろう。

 

ピアッシング』独自な虚構性を、たわむれ、からかい、ゲーム、という言葉を使って確認してきた。だが、いったいだれとだれがたわむれ、だれがだれをからかい、だれがどのようなゲームに参加しているというのか。
アイスピック。
彼がゲームのプレイヤーで、さまざまな狂気のなかから無作為にリードとチャッキーをキャラ選択しプレイしている。そんな印象だ。
きっと、質量のないまっすぐなからだに、細く鋭く尖った形状に、リードは魅せられている。人を刺すのに、殺すのに、凶器はなんだっていいはずだが、彼は執拗にアイスピックにこだわり続けるのだ。ハルシオンで眠らされ混乱のなかで目を覚ましたリードが口にする言葉が「いったいなんだ?」ではなく「アイスピック……」であることはあまりに可笑しく、恐ろしい。
リードの憧れは暴力を伝ってチャッキーへと伝染する。攻守交替、邪魔っけなからだを売り歩く彼女は、冷たく無機質な、純粋なアイスピックのからだに魅惑される。
だからやはり、二人をたわむれさせ、すれ違わせることでからかっているのはアイスピックなのである。かつて花田清輝チャップリン映画を評して「人間がピンボールのように扱われるおかしさ」と書いていたが、本作は有機物が無機物に憧れを抱き、無機物が有機物を演じることの欲望を描いている。
ピンボールみたいに二人は、ぶつかり、跳ね回りながら、すれ違いのタイミングにおいてとうとうかち合う。
「その前になにか食べようか?」

 

Oh!透明事件! 〜『名探偵コナン 紺青の拳』を見たゾ〜

あらゆる要求にこたえるのはラクじゃない。原作マンガアニメシリーズ映画スピンオフと、今やコナンコンテンツは様々な層の歴史と愛着が折り重なったミルフィーユだから、万人を満足させようと思うとどうしても錯綜した内容にならざるを得ない。
そんなわけで、劇場版最新作『名探偵コナン 紺青の拳』にはうじゃうじゃキャラクターが登場し、全員が好き勝手に行動するうちいつの間にか重要事項の山が築き上げられてしまう。
・二件の殺人事件の謎
・紺青の拳と呼ばれる宝石をいかにして盗み出すか
・空手大会における二人のカラテ家の対決
・さすらいのカラテ家と財閥令嬢の恋
・高校生探偵と髪型アトムねえちゃんの恋
シンガポールの土地利権をめぐる愛憎
・現役海賊たちが巻き起こす無目的な大暴れ
・全面協力してくれたマリーナベイサンズの観光PR

盛りだくさん。
これらすべての要素を、観客を飽きさせないよう、不自然に思われないよう組み合わせなければいけないのだから、脚本家はたいへんだ。結果どうなっているかというと、もちろんむちゃくちゃである。ツッコミどころ満載。それが楽しい。観客たちは、時にハラハラドキドキ、時に吹き出しながら映画を楽しむだろう。

それにしても、それぞれの要素について映画が下した価値判断、重要度の位置付けは興味深い。
このうちもっとも重要度が高いのが、“さすらいのカラテ家と財閥令嬢の恋”なのは言うまでもないだろう。今回の主人公は明らかにこの二人で、他のすべては(コナンでさえ!)恋愛のサポート役に過ぎない。しかし反対にもっとも重要度が低いのが、ミステリードラマの核心たる要素=“二件の殺人事件の謎”であることには唖然とさせられる。
被害者二人はただセクシーなだけのネーちゃんで、まったくと言っていいほど掘り下げられない。必要最低限の殺される理由が示されるだけ。(余談だが、このセクシーさはもしかしたら問題にされていい。二人はともに美しくセクシーに描かれているものの、胸はぺったんこ。つまりアニメ表現としてわかりやすいセクシー属性が与えられているわけでもなく、中途半端なのだ。セクシーには描かなければならないがセクシー過ぎてはよろしくないという配慮が、オタク層だけでなく女性や家族連れも見に来るから、というマーケティングに関わるものだとしたら、問題は根深い) 
あまつさえ、コナンによる謎解きが披露された後も、具体的に、事件のどこにどのようにだれが関わったのか、結局のところ殺したのはどいつなのか、ちっともわからないのだ!(単に僕がバカな可能性もあるが)

事件の印象を弱め、観客をあいまいな記憶喪失に誘う姿勢は、東宝の公式Youtubeチャンネルによる予告編にも明らかだ。
そこではまるで殺人など起きていないかのようであり、被害者と犯人の顔は一度も映されないのだから。
内容紹介を読んでみよう。
怪盗キッド、絶対絶命!?
かつて海底に葬られた【伝説の秘宝】を巡り
シンガポールの謎と最強の空手家・京極真が牙を剥く!
いま、“眠れる獅子”の巨大な闇が目を覚ます-』
いやコナンわい!!!!!!!!!
とうとう探偵まで消えた。被害者も加害者も探偵もいなければ、事件はもちろん存在しない。

隠蔽されるのはミステリーの中心となる事件だけではない。
映画前半、マリーナベイサンズのホテルが数ヶ所爆破される。なぜかはわからない。後半にさしかかると、海賊たちが攻めてくる。これも理由はわからない。真剣に見ていたのに全然わからなかったので、やっぱり僕はバカなのだろう。
あんな人が密集してそうなとこでの爆発もすごいが、海賊たちはタンカーで陸地につっこんだりロケットランチャーでよくアイドルが水着撮影を行うマリーナベイサンズの屋上部分を爆撃したり、やりたい放題である。
いったいこれで何人死んだのか!?
どう控えめに見ても数百人は死んでいる。
ところがゼロなのだ。少なくとも映画のなかでは、だれも死んでないようにしか見えない。そもそもこのことは一度も触れられない。みんな空手と恋愛と謎解きに夢中。

この通り、事件どころか死そのものを隠蔽してはばからない態度(ミステリーなのに!)には、マーケティングを重んじる心が全面に表れている反面、もっと単純な欲望が隠されているように思う。
つまりこうだ。
だれもが美しくセクシーな女の背中にナイフを突き立てたいと願っている。
だれもがマリーナベイサンズのようなけしからんふざけた建物は今すぐ爆発すればいいと思っている。

ところが、真実の欲望を口にした途端、人は良識に殴られてしまうのだ。いま君が僕にフィストを振り上げたように。
しかしどう考えても女は殺したいし高層ビルは爆破したい。そうではないか?
そうでないなら、どうして見たところ必要もないのに、セクシーな女が殺されるのだろう?真っ白なハイヒールを履いたブロンド美女が、背中にナイフを突き立てたまま、カツカツ、ヒールを鳴らし、よろめき歩くシーンが冒頭に置かれているのだろう?
これまた必要なさそうなのに、例のインフィニティ・プール、マリーナベイサンズが誇るインスタ映えスポットが爆撃されるのはなぜか?
思い出してほしい。これはタランティーノの映画でもブライアン・デ・パルマの映画でもない、名探偵コナンの最新作なのだ!

理由は、僕ら全員が一人残らず100%確実に抱いている願望を映像的に叶えるためである。
殺したい & 壊したい。
とはいえ、これをそのままやっちゃうと袋叩きにあう。なにより『名探偵コナン 紺青の拳』の監督はタランティーノでもデ・パルマでもないのだから、殺したい & 壊したい願望が生む現実、死や事件の陰惨さは隠されなければならなかったのだ。
大事なのはこの後。
見せ場でもない事件をわざわざ発生させておいて、しかもそれを隠蔽しようとする。一見不可解なこのような手続きを通すことによってはじめて、観客は危険な願望に気づかないままそれを叶えることができるのだ。つまり、女を殺したいなんてけしからん!と怒り狂いながら女を殺し、マリーナベイサンズを爆破したいなんて不謹慎だと憤りながらマリーナベイサンズを爆破できるのである。
素晴らしいではないか!

フィクションは、めんどくさい責任を回避させてくれる快楽装置である。
さきほどはデ・パルマではない、と言ったが、マーライオンが血のように真っ赤な噴水を吐き出す悪夢的なシーンなど、じゅうぶんにデ・パルマ的な快楽があった。
これを読んで僕のことを変態鬼畜クソ野郎呼ばわりする向きには、ごめん、コナンくんには負ける、と言っておこう。
殺人事件について話しながら、彼はこう口にするのだ。「彼女は背中にナイフを突き立てたままアーケードまで移動したんだ…」
なんという恐るべきセリフ!コナンには感情がないのだろうか!?
そういやこいつ、乱暴狼藉の限りが尽くされるマリーナベイサンズを横目に誰一人助けようとせず、ただ承認欲求を満たしたいがために犯人を縛りつけてじっくり自分の推理を聞かせてたなあ。
おーこわ。

 

たかが真実 〜『アメリカン・アニマルズ』の集合と離散〜

映画『アメリカン・アニマルズ』は2004年にケンタッキー州で起こった実際の盗難事件を題材にしている。博物学の精華として知られるオーデュボンの画集「アメリカの鳥類」時価1200万ドルを盗み出そうとした犯人は、なんと将来を期待される四人の大学生たちだった。いったい彼らはなぜそんな無謀な賭けに出なければならなかったのか。役者によって一部始終が再演されつつ、犯行に手を染めた本人たちが登場し証言する。この特殊な構成の前者を劇パート、後者をドキュメンタリーパートと捉え、スタイリッシュな虚実の入り交じりを堪能するだけでは見落とされてしまうもの。逆説的に言って、これこそが本作の肝ではないだろうか?
本人たちが出演するパートをドキュメンタリーとして見る限り、ある種の不自然さが目に付く。元犯罪者とは信じにくい無邪気で夢見がちな態度、ほとんど英雄的にすら思える語り口。なによりも、それまで雄弁だった四人が犯行の実際を語るに至って口を閉ざすアクション(四人が四人とも、まったく同じタイミングで沈黙する)など、どうしても嘘くさく感じられる点が多い。おそらく観客は、このいかにもドキュメンタリー然とした悲痛な沈黙のうちに、作り手によるなんらかの作為を嗅ぎ取るに違いない。しかしこのことをもって本作の看板文句“This is a true story”の瑕疵とするのは筋違いだろう。あくまでも全編が劇映画なのだ、と考えるのがふさわしい。これは、他者が演じる虚構と本人が語る現実がひとつの真実を構成する映画ではなく、他者と本人がともに本人役を演じることによって複数の真実を浮上させる映画なのである。
根拠はいくつか存在する。最も決定的なのは、犯行グループのリーダー的存在であるウォーレン・リプカが、ニューヨークで故売人(盗品など特殊な事情を持つ品を買い受ける業者)に接触するシーンだ。この故売人の容姿を巡って複数の証言が対立することは興味深い。リプカはその人物を立派な身なりをした年配の紳士だったと語り、リプカの親友で犯行に加担するスペンサー・ラインハードは、青か紫のストールを巻いた中年男性だったと語るのだ。だがここまではよくある記憶の食い違いに過ぎない。驚くべきはこの後。なんと映画は、相反する証言に基づく二つの現実を連続して映し出してしまうのだ!結果としてリプカ役を演じるエヴァン・ピーターズは、異なる風貌の同じ故売人に二度話しかけることになる。
ユーモラスだが不気味なこのシークエンスは、本作のテーマを端的に示しているように思われる。それは、現実とは不確定なものであるというテーマだ。一人一人の人間が異なる主体である限り、それぞれの目から見た現実は違った形でさまざまに存在し、それでいてそのすべてが“true”であり得る。だが/だからこそ“true story”=“真実の物語”なるものは、複数の主観と偏見の妥協点以上のものにはなり得ないのだ。
本人パートに登場するセリフ(証言というより、やはり)のいくつかがこうした見方を補強している。意見の齟齬に差しかかってリプカ「スペンサーがそう言うならきっとそうなんだろう」。全体を総括してスペンサー「この事件を思い返す時、どちらの物語として考えるべきなんだろう?僕か、ウォーレンか。思い出すには、どちらか一方の視点に立った方がやりやすいんだ」。
従って、ともすれば物議を醸しかねない冒頭のキャプション“This is not based on a true story, this is a true story”は、「これは真実に基づく物語ではない、真実そのものの物語である」という勝ち誇った宣言と取るより、「これは事実に基づく物語ではない、たかが真実の物語である」という皮肉な挑発として受け取るべきだろう。
しかし、ドキュメンタリー映画の定型となっている口上を茶化したこの文句は、リアルの決定不可能性に対するフィクションの敗北宣言ではない。なぜなら、一本の映画のなかに組み込まれることによって、現実(と思われるもの)も虚構(と思われるもの)も、同じレヴェルの物語として再編成されるからだ。実際、『アメリカン・アニマルズ』を見たわれわれが現実と虚構、異なる二つの映画を観賞したなどと感じることはありえない。一本の映画として見る限り、スクリーンの画面越しに楽しむ限り、あらゆる現実はひとつの虚構になるのだ。決定不可能なリアルはなにかしら強固なリアルに出会って確定されるわけではない。そんな事態はどこまでいっても起こり得ない。むしろ反対に、唯一フィクションだけがリアルを確定し得るのだ。揺らぎ漂うリアルを、少なくとも上映時間中に限っては決定してしまう機能こそ、良くも悪くも映画というフィクションの特性なのである。
どういうことか?
一般に、ある特定の事実は各々に都合のいい形で記憶・インプットされ、それが物語られる・アウトプットされる際には更なる改変が加えられる。物語が身体もしくは頭を通して生きられた過去を語り“直す”構造を持つ以上、ひとつの事実(fact)を複数の真実(true)が歪めてしまう暴力性から逃れられない。このように考えられていたからこそ、20世紀初頭の映画メディアの発明は大いに歓迎されたのだ。カメラとはいかなる主観にも与しない公正中立な目であり、それが映し出すものは複数の真実ではなくひとつの事実。おまけに記録と再生の両方の役割を担う特性からして、インプットとアウトプットの間に生じるラグを最小限に抑えることができる。これこそ主観の暴力性を回避する画期的な発明ではないか!
このような期待がどれほど楽天的なものだったかは今や明らかだろう。カメラの目がどれほど正確でも、それを操るのは人間であるという単純な事実が見落とされていた。もっと根本的な問題は、もし仮に正確に記録された映像が適切に上映されたとしても(しかしこの正確さと適切さを判断するのは誰なのだろう?)、それを観賞するのは人間の不正確極まりない目であるということだ。結局のところ、いかな全能の機械といえども、人間に“向けて”作られる限り、けっして全能のままではいられないわけだ。
いくつもの悲劇を経験し、夢見がちな期待が冷めた頃、“人間が他者の現実をそのまま経験することは可能か?”という原初の問いは差し戻されるに至った。それはやはり不可能だ、というのが無力感とともに得られたひとまずの結論だったろう。しかし、本当は問い自体が間違っていたのだ。なぜならリアルはだれにも経験できないから。他者はおろか、当人にとってさえ。ここまで見てきたように、現実はひとつではなく、常に複数存在する。青いストールを巻いた怪しげな男と風采の上がった立派な紳士はいつも一緒に存在しているのだ。記憶が照らし合わされようと、カメラによって映し出されようと、リアルはどこまでいっても確定され得ない。繰り返すが、これを確定できるのは唯一フィクションだけなのだ。いったい、常に複数存在してしまう浮気な現実にどれほどの現実味を感じられよう!
だから、あらゆる問いの前に位置する仮定はこうなる。
“現実は確定できない。それゆえ現実を経験することはだれにとっても不可能である。”
とはいえ絶望するのはまだ早い。この命題をまるごとひっくり返してしまう力が、映画には、フィクションには備わっているという逆説を、『アメリカン・アニマルズ』は教えてくれるのだから。
即ち、
“虚構だけが現実を確定する。それゆえ虚構を経験することはだれにとっても可能である。”
そして、だれにも経験可能なフィクションはだれにも経験不可能なリアルより、時によっぽどリアルなものに感じられる。少なくとも、映画の上映時間中、そのわずかな至福の最中には。
このように考えた場合、本作のクレジットロールは感動的ですらある。そこでは劇パートと本人パートに出演した“役者”が同列に扱われているのだ。
ウォーレン・リプカ エヴァン・ピーターズ
スペンサー・ラインハード バリー・コーガン
そして、
リアル・ウォーレン・リプカ ウォーレン・リプカ
リアル・スペンサー・ラインハード スペンサー・ラインハード 
おわかりだろう。例えば後者を、
現実のウォーレン・リプカ ウォーレン・リプカ本人
現実のスペンサー・ラインハード スペンサー・ラインハード本人
などと訳してしまってはだいなしなのだ。望むべくはこう。
リアルなウォーレン・リプカ役 ウォーレン・リプカ
リアルなスペンサー・ラインハード役 スペンサー・ラインハード


そもそも、将来有望な若者であったはずの四人が、どう考えてもうまくいきっこない犯罪に手を染めたのはなぜか?それは平凡な日常を脱し、なにか特別なことを求めたためだった。うまくいきっこない、フィクショナルな計画であればあるほど、リアルから遠ざかれる気がしたのだろう。その意味で本作のコピー“犯罪史上、最高に阿呆な奴ら”は、単に的外れであるだけでなく、リアルのうちにフィクションを招き入れる=自己を物語化する身振りに宿る暴力性を甘く見ている点において、危険ですらある。例えば服役した刑務所内で彼らに訪れた異様な感慨は、こうした暴力性に立脚してしか理解できないのだから。公式パンフレット中の監督の発言によれば、刑務所に入った四人が味わったものは、心の平安であったという。これでようやく周囲の期待にこたえずとも済む。そう思うと、生まれて初めての解放感に包まれた、と。思わずゾッとさせられる発言だ。浅はかな夢を打ち砕く刑務所という現実の場でさえ、彼らにかかればある種のフィクションを孕んでしまうというのだから。きっと彼らは平凡な日常からわが身を遠ざけてくれるあたたかい場所として、刑務所を経験したのだろう。このフィクショナルな内部、物理的な閉鎖施設としてではないイマジナリーな保護空間としての刑務所に、われわれが足を踏み入れることができるとすれば、それは本作を見る経験を通してであろう。なんとなれば、かつて挫折したフィクションとしての犯罪が、今や数年の時を経て完全なフィクションのなかに呑み込まれようとしているのだから!リアルはフィクションにおいて遡及的に決定される。語ることによって、演じることによって、不確かだが光り輝いていたいくつもの特別な未来は、ようやくひとつの平凡な過去として確定されたのだ。
かくして『アメリカン・アニマルズ』を通して、特殊な経験を同じくする四人だけに共有されていたファンタジックな空間は、万人が住まうことのできる映画空間と重なり合う。それでいて、物語ることの暴力は見る過程のなかで繰り返し復活するのだ。映画が終了したのち、フィクションによって決定されたリアルは、再び決定不可能なものとして飛び去ってしまう。われわれがこの映画を見るたび、四人は何度でも集合しては離散し、ウォーレンは何度でもアムステルダムに行き(行かずに)帰ってくるのだ。このことを忘れてはならないだろう。


テーマ性から離れた事柄について、二、三。
音楽の趣味が異常にいい。ジョニー・サンダース(パンフレットにはジョニー・サンダーと表記されていたが、最近はこう呼ぶのだろうか?)、アニマルズ、ドアーズあたりはまあわかるにしても、CANが流れるに至っては歓喜せざるを得ない。しかーし!予告編で使用されているAlt-jの「In Cold Blood」リミックスが1秒たりとも流れなかったぞ!いったいどういうこと?聴き逃し?少なくとも僕の現実では流れなかったんだ。君の現実はどう?
演出がお上品過ぎる点をどう見るのか問題。参照されているのは『レザボア・ドッグス』『オーシャンズ11』『snatch』『ソード・フィッシュ』といったクライム・ムーヴィーばかり。この手の映画の醍醐味は、困難な任務をいかに遂行するかという頭脳ゲーム的な要素を除けば、お宝をゲットした瞬間のウヒャウヒャ感とヘマして警察に追われるシーンのヤバヤバ感、こうしたド派手な落差にこそあると言っていいだろう。わかりやすく天国と地獄を描くことが大切なのだ。ところが本作では、この天国と地獄が同じさりげなさのなかに留められている。その手際は見事なもので、青春映画として見ればかなりイイのだが、喧伝されているような内容を期待すると肩すかしを食うのではないだろうか?個人的にはもう少々、趣味が悪くてもよかったような。
バリー・コーガンはやっぱりすごい役者だ。出てくるだけで空気がピリピリ締まるのは『聖なる鹿殺し』の印象が強いせいばかりではあるまい。彼が演じたスペンサーとスペンサーが演じたスペンサーはともに芸術への憧れが強かったという。華麗な色彩で原寸大の鳥たちが描かれた特大本「アメリカの鳥類」は、そんな彼らを無意識に誘惑したに違いないと思う。
現在の四人に交流があるのか、気になる。根っからの芸術家タイプはスペンサー一人きりであろうに、事件後、四人のうち三人までが芸術表現に目覚めている事実は興味深い。絵画、映画、小説と、それぞれ異なる手段をもって物語る営為を継続しているようなのだ。ここからはなにか、物語る動物としての人間の業を感じずにはいられない。え?あとの一人はって?彼は14歳の若さで社長に就任、既に人生の物語化を完了させてるってオチ。
衣装協力にアムステルダム発新進気鋭のストリートブランド・New AMSの名があったように思う。フェルメールの絵画を分割してグラフィック化したり、おもしろいんだここの服。