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おねしょの教科書

【おねしょ、または、台なしの美学】

おこられちゃうおこられちゃう、ダメ!ダメ!積み上げた緊張のジェンガが一気に崩れる、やっちゃったーのあの瞬間は、実はやったーなのでもあって、たまらなく気持ちいい。
おねしょはだれもが人生ではじめて経験する失敗のエロスであり、台なしの美学である。
おねしょは気持ちいいが、反面、ひどくハズかしいものでもある。これは、おねしょという体験が、同時にふたつの真理をこどもに教えるからだ。やっちゃいけないことをやっちゃう自由。やっちゃいけないことをやっちゃった自分。前者が気持ちよさの、後者がハズかしさの自覚をそれぞれうながすだろう。
やっちゃいけないことをやっちゃった自分を恥じる心。これは社会性の小さな芽生えだ。やっちゃいけないことをやっちゃう気持ちよさ。これは反社会性の暗い胎動である。
青い空に白い雲が浮かぶように、自然ななりゆきで白いシーツに黄色い雲を描いてしまったこどもは、その瞬間から、自らに眠る社会性と反社会性とを戦わせはじめなければならない。
教育とは、やっちゃいけないことをやっちゃう自由について、気持ちよさではなく恥ずかしさを、より多くこどもに植えつけるにはどうすればいいか?おとなたちが知恵を絞った結果のものである。
教育によって、こどもはおねしょをしなくなり、そこで経験した恥ずかしさを守るべきルールへと育てあげていく。
他人に迷惑がかからないよう、決められた場所で決められた方法に従って用を足す。正しいおしっこは、おとなのルールの基本形でもあるのだ。



【なぜ人を殺してはいけないの?または、ルールの誕生】

ところで、どうしておねしょをしてはいけないのだろう?
いけないと決めたのはもちろん、おとなたちだ。
やってもいいをやっちゃいけないに変えてしまう不思議な力を、ルールと呼ぶ。ルールができあがってくる背景と、他人というものは深く結びついている。
ためしに、こどもがおとなを困らせる難問、“なぜ人を殺してはいけないの?”について考えてみよう。これに対するスマートな回答はたぶん、“自分が殺されたら困るから”だろう。自分に取っての自分が自分であるように、他人もまた他人に取っての自分なのだと理解しなければ、この答はけっして導き出せない。こどもの世界には、たったひとりの自分とその他おおぜいの他人しかいないから、人を殺してはいけない理由がうまく飲みこめないのだろう。
どうやら世の中はニンゲンの数だけの“自分”で成り立っているらしい・・・こんなふうに想像してみる時はじめて、「人を殺してはいけない」というルールが浮かび上がってくる。ひとりの他人が死ぬことはひとりの自分が死ぬことであり、それが自分自身であったとしてもなんら不思議はないからだ。
他人のいないところにルールはいらない。逆にいえば、やってもいいがやっちゃいけないに変わってしまう場所には、いつも他人がいる。こどもがうるさくしはじめた時、だからおとなはこう言って叱るのだ。「他の人に迷惑でしょ!」
というわけで、おねしょしてはいけない理由は“他人の迷惑になるから”なのだが、一見あたりまえに思えるこの“他人”とは、実際には“いろいろな自分”という意味なのである。



【おとなのおねしょ、または、やるせなさの亡霊】

こどもの一生は、おねしょへの未練を断ち切るやるせなさとともに終わり、おねしょをガマンする苛立ちを抱えておとなが始まる。
しかし、たとえこどもがそれを忘れたとしても、シーツに描かれたシミは作者の恩を忘れず、おとなになってもついて回る。
おとなのおねしょ。それが涙だ。
もちろん、こどもだって涙を流す。泣くことが恥ずかしいという意識もちゃんとある。とはいえ、その恥ずかしさはおねしょに勝るものではないだろうし、おねしょを克服したおとなに取ってのありふれた失態はやはり、人前で泣くことではないだろうか?なにせ人前で泣くことを“屈辱”と捉える人だっているのだ。屈辱という言葉はこどもの世界ではめったにお目にかかれない、大人の表現だろう。
涙がおねしょだとすれば、人前で見せるわけにはいかない。会社でこっぴどく叱られた時、だからおとなはトイレで泣く。トイレで漏らすおねしょが正しいおしっこに変わるように、だれもいないトイレで思うさま泣きじゃくるのは、おとなの正しい排泄法なのである。
トイレの他に浴室という手もある。だれもが一度は経験する浴室でのおしっこ。これは、シーツにシミをつけることがなく「他人に迷惑をかけない」から、ギリギリおねしょにはカウントされない、いわば“準おねしょ”のようなものだ。浴室での号泣も、“おとなの準おねしょ”として了解されるだろう。



【ハズかしさの共犯、または、社会性つばめ返し!】

アダムとイヴが禁断の実を食べて以来、裸になることはもっとも恥ずかしい行為とされてきた。逆に言えば、恥ずかしいことをしたい時、人は裸になれる場所を選ぶ。おとながトイレや浴室で泣くのは自然な選択なのだ。
他にニンゲンが裸になるのはいつだろう?自室で着替える場合を除けば、多くは恋人と過ごす時ではないだろうか。
妹が誕生してはじめて兄が兄と呼ばれはじめるように、あらかじめ一人で恋人だったニンゲンはいない。人は恋人に生まれるのではない、恋人になるのだ。それはどんな時だろう?
恋人になる前はだれしもこどもで、おとなになりたがっている。まだまだこどもだから、甘くほろ苦いおねしょの記憶に後ろ髪引かれつつ、それでもおとなにならなくちゃいけないから、一人であの黄色いシーツに帰るのは無謀だと知ってもいる。
思い悩むうち、彼は名案をひらめく。
一人がダメなら二人だったら?おねしょの気持ちよさをだれかとわかちあえるとしたら?そんなに好都合なことはないのではないだろうか・・・
他人がいるところにルールを積み上げ、崩れないようバランスを取った山のてっぺんが社会だ。この山をひっくり返す時、他人を伴う行動が社会性を獲得する仕組みがわかる。
もっとも反社会的なケース、犯罪についてでさえ、だれかと行えば共犯になり、だれかの数が増えれば増えるほど、もはや無視できない反社会性としてルールに食い込む。社会を脅かすだけの強度を持った反社会性が十分に社会的だというのは、逆説でもなんでもない。それは“現在の社会が選び取らなかった社会性“だというだけの話なのだ。
そして、選び取られなかった社会性の暗がりを照らすものこそ、恋人というランプなのである。



【恋愛、または、仁義なきおねしょ合戦】

こどもの頃経験したおねしょ。途方もない恥ずかしさと気持ちよさ。
おとなになるにつれ、前者は行動規範として高められ、後者は正しい涙とおしっこに吸収されていく。しかし、完全に消え去ってしまうわけではない。
願わくば、社会性を保ったままそいつを取り戻せたなら!
わがままな望みが対象に出会う時、他人同士だったニンゲンは一対のさなぎとなり、甘い繭の中につつまれる。養分が足りなければさなぎは腐ってしまうが、十分あたためられた暁には恋人として孵化するだろう。
恋人。風変わりなこの生き物が食べるのは、恥ずかしさと気持ちよさというエサ。ふたつのエサをわかちあう間だけ、恋人は恋人として生きられる。
気持ちよさを与えてくれる相手は信頼できる。信頼できる相手になら、恥ずかしい部分を見せられる。気持ちよさと恥ずかしさは同じコインの裏表であり、後者のわかりやすい具体化が裸であることは言うまでもない。
恥ずかしさと気持ちよさを効率的に分泌できる装置、恋人たちのありふれたエサ箱。だとすれば、これこそがセックスの正体だろう。無意識のおねしょ願望から発した恋愛は、ついにひとつの目的を達する。オーガズムとは、シーツの代わりに肉体に漏らすおねしょなのだ。
恋愛。おとなに差しかかったこどもたちのおねしょ合戦。そこには騙し合いがあり、馴れ合いがあり、共食いしながら共存する特異な社会性が息づいている。
おとなになればなるほど、おねしょに対する欲求は薄れ、激烈だった戦意はゆるやかなものに変化していくだろう。それは苦みばしった成長か、はたまた平和な堕落なのか?



【台なしの美の虜、または、サブカル者の受難】

やっちゃいけないことをやっちゃう自由について、気持ちよさより恥ずかしさを多く学んだこどもについて書いてきた。このようなこどもがおとなになった場合、おねしょとはいちおう縁を切り、上手に泣くコツと恋愛の妙味とを覚えていく。
ところが困ったことに、おねしょの恥ずかしさではなく、気持ちよさの方を忘れがたく覚えてしまっているこどもが存在するのだ。
おねしょにまつわる恥と快楽のうち、前者だけを取り上げようとする教育がそもそも不自然なのだから、ほころびが出てくるのは当然だろう。とはいえここで問題にしたいのは、教育の失敗が生むこどもではなく、失敗の教育の成果としてのこどもたちの方だ。恥を教える体系が教育なら、快楽を教える体系もまたひとつの教育にほかならない。ただし、前者に比べて後者の方は十分に体系化されているとは言えないから、これを学ぶこどもの道筋は様々に分かれる。
失敗の気持ちよさをマゾヒズムとして味わう者。台無しの美学にデカダンを見出す者。
いずれにせよ、彼らに取っての教科書の多くは、文学やアニメ、ロック音楽といったサブカルチャーだろう。
正しいおしっこを号令するホイッスルをメインカルチャーと呼ぶならば 、サブカルチャーは、間違ったおしっこのヴァリエーションを取りそろえたカタログだ。
“おしっこしたくなってもガマン!トイレは次の曲がり角!”をメインカルチャーの天日に干すと、“落ちこんでもくじけずがんばろう!陽はまた昇るから!”に乾く。“おしっこしたくなったら漏らせばいい、どうせ便所なんて落書きだらけさ・・・”をサブカルチャーの冷凍庫に入れると、“死にたい消えたい愛されたい・・・”に固まる。
ふたつの嗜好は一見正反対に思えるが、“単におしっこしたがっているだけ”という意味において、実は大きなちがいはない。たかがおしっこに良し悪しをつけることで成り立っているのが社会だという真理は、ここでもう一度確認されるべきだろう。



【芸術と狂気、または、ワインとおねしょはよく寝かせて】

おねしょの気持ちよさを手放せないままでいる、しょうがないこどもが辿る道はふたつ。
快楽主義のアナーキストになるか。禁欲主義の奴隷になるか。どちらかしかない。
おねしょの気持ちよさを求め、代用品を探しさまよう。その道中でサブカルチャーに傾倒し、あるいは性愛に溺れるのが前者。彼はいつでもどこでも、気持ちよく漏らすチャンスをうかがうはみだし者だ。しかし一方で、このタイプは芸術家としての資質を秘めている例が多い。適切に排出されなかったおしっこが表現欲求にまで高められた時、アートとして花開くのだ。
興味深いのは、反社会的だったおねしょが“ゲージュツ”と名づけられた途端、作者の危険性まで許されてしまうことだ。芸術は、サブカル者が社会との接点を持つために残された、幻想のトイレと言えるだろう。
反対に、最高のおねしょを望むあまり、耐え忍ぶのが後者。
こういうニンゲンはだいたいが控えめで、礼儀正しく、人前ではけっして泣かない。彼に取ってまじめなことはまじめであるほどよく、むずかしいことはむずかしくあるほどいい。なぜなら、まじめなことはまじめであるほど、むずかしいことはむずかしくあるほど、台なしになった瞬間の気持ちよさが増すからだ。したがって彼の道行きは、最高に気持ちいいおねしょを漏らす目的で、トイレに続く廊下をなるべくゆっくり歩く足取りに似てしまう。
おしっこはだが、ガマンしようと思ってできるものではない。危険なのはこの点だ。反社会的な性格を持つおねしょがコントロールを失って流れだせば、濁りは暴力性へと姿を変えてしまう。



【永久に間に合わないトイレ、または、引き延ばされた死への欲望】

後者のタイプが暴力性に向かう仕組みを考えてみよう。
傍目には、彼は誠実に日々を送るおとなにしか見えない。しかしその奥底には、台なしの美に憑かれたこどもが眠っている。眠りながらこどもが見ているのは、“永久に間に合わないトイレ”という夢。トイレに続く廊下を無限に引き延ばす、この夢が暗示するものはなんだろう?
それは、死のイメージだ。ニンゲンがひとつひとつ大切に積み上げてきた生の輝きを、死は一瞬にして破壊する。死こそは究極のおねしょであり、台なしの美をたばねる親玉なのだ。
おしっこをチャージするうち、知らず死に向かうこどものガマンがくじける時、積み重なった死への憧れは、外に向かって転がりはじめるだろう。
“なぜ人を殺してはいけないの?”この疑問に対する回答は、“自分が死んだら困るから”だった。ならば、死を欲望するニンゲンが存在するとしたら?もう一人の自分である他人を傷つけてはいけない理由は、どこにもなくなってしまう。
ルールができあがってくる仕組みを裏返すように、こうして狂気の論理が成立する。狂気とは、正常な論理の網目から飛び出た糸などではない。形は違えど、それもまた見事に編まれた織物であるからこそ、容易には解きほぐせないのだ。



【復讐するより復習を!または、小さな死を死に続けること】

社会に選び取られなかったもうひとつの社会性、“狂気”の笛吹きがこどもたちをさらってしまう前に、おさらいしておこう。

①自分と他人が同時に存在する領域が世界である以上、正しいおしっこは必要である。ルールとは、“他人=いろいろな自分”というまなざしの交差点に立つ案内標識なのだから。標識を見失えば、ニンゲンは道に迷ってオロオロしたり、自暴自棄になってしまったりする。
②従って、おねしょの気持ちよさは慎重に管理されなければならない。そこで教育やメインカルチャーは、“正しい管理方法”を仮決めした。反面、がんじがらめの窮屈を回避するため、正しさを脅かさない程度のおねしょなら黙認することにした。トイレや浴室における涙、恋愛に伴う裸がこの例だ。
③しかしながら、便宜的に形作られたものである以上、教育やメインカルチャーには不徹底が多く、これを補おうとする切実な要求、ほころびに対する怒りの声として、サブカルチャーが台頭してきた。おねしょの恥を強調するのが教育やメインカルチャーであるのに対し、おねしょの気持ちよさを呼びさますのがサブカルチャーである。
④ところが、ガマンすればするほど気持ちよさが増すというおねしょの特性から、最高の一発を望んでガマンし続けるこどもが現れはじめる。サブカルチャーもまた、おねしょを完璧にコントロールするには至らなかったのだ。おねしょの気持ちよさの正体は、ルールの外に出る開放感であり、台なしの瞬間に宿る美学である。必然的に、このこどもは究極のおねしょ、即ち、もっとも大切な営みである生を台なしにする死を欲望する。

いったい、あわれなこのこどもを救う道はないのだろうか?
唯一の方法は、おそらく、“正しいおねしょ”を覚えさせていくことだろう。
正しいおねしょ。そんな形容矛盾は、本文が書かれる以前には存在しなかったはずだ。だからこれは、世界初のおねしょの教科書ということになる。
正しいおねしょとはなにか。
それは、おおいなる死を忘れるほどのひたむきさをもって、小さな死を死に続ける試みにほかならない。かんたんに言ってしまえば、緊張しきった膀胱をほんの少し、ゆるめてやることだ。
人前でワアワア泣いたっていい。道ならぬ恋に身を焦がしてみるのもいい。世を儚んで芸術に没頭するのだって悪くない。それらはすべて、おねしょのヴァリエーションであり、台なしの美のシミュレーションであり、小さな死を死ぬことなのだ。
ただし、ルールというトイレがピカピカに保たれる前提を要求しつつ、汚したら掃除する程度の品格も持ち合わせておかなければならない。反社会的なおねしょにギリギリの“正しさ”を付け加えられるのは、ただその覚悟によってのみなのだから。
盛大なおねしょをぶちまけたくなる衝動は、だれの胸にも宿りうる。すまし顔のおとなのなかに、死に魅入られたこどもが眠っていないと、どうして言えるだろう?この危険を忘れてはいけない。
こどもだった頃描いた黄色い雲に手を振りながら、さあ、今こそ問いかける時が来た。
「わたしが今手を振っているのは、さよならを思い切るための合図なのか、それとも、再会を歓迎する挨拶なのだろうか?」と。