恋ってなんで終わっちゃうの?浮気ってどうやったら見抜けるの?

ズバリお答えしましょう。



【ぼくたちの失敗、または、恋が立ち止まる理由】

恋人ってだれ?
それはかならず他人で、つまり“もう一人の自分”で、その中でも特に“自分に近しく感じられる他人”であるはずだ。
他人のことはわからないが、もう一人の自分なら推測はできる。自分に近しくあればあるほど、推測はかんたんに、深くおこなえるはずだから、恋人を理解するのがムズかしく感じられる時、人はイライラする。
今までにないほどかんたんに、深くわかりあえるはずだという期待から恋は出発し、今までとおなじようにそれが困難だったという現実に打ちのめされ、立ち止まってしまう。
だけどなにかが変だ。もう一度考え直してみよう。どうしてそうなってしまうのか?
恋人は他人だ。他人がいる場所にはルールが必要だ。二人でルールをつくってそれを守り続ければ、最悪の事態は避けられるのではないか?
ところがここに落とし穴がある。ルールというものは、“他人=もう一人の自分”という前提が共有されなければ生まれてこない。だが、“もう一人の自分”はけっして自分自身とイコールにはならないのだ。
恋人は他人で、せいぜいのところ自分に似たなにかでしかない。ところが、恋は“似た”を太らせつづけ、最後には透明にしてしまう。恋人=自分自身と錯覚したがるのだ。
自分しかいない場所にルールはいらない。他人が他人でなくなり、二人の自分にすり替わってしまう瞬間、ルールはお払い箱になる。すべてのやっちゃいけないがやってもいいに変わり、なにもかもを許しあううち、愛は大きく燃え上がるだろう。しかし残念ながら、ルールを破ることについて気持ちよさより恥ずかしさを多く教えられてきたニンゲンは、そんな自由に長く耐えられないのだ。
「なぜだろう、なぜだかわからないけど苦しい・・・完璧な僕らにも、どうやらルールは必要みたいだ。だけど今さら二人でそれをつくるのは興ざめだし・・・」
追いこまれた彼は、相手に知らせないまま、一人でこっそりルールをつくりはじめるだろう。一種の緊急避難なわけだが、共有されないルールはひとりよがりに過ぎないから、どうしたって行き違いが増える。それが積もり積もって限界に達した瞬間、恋は破綻してしまうのだ。
ルールを破りたがる情熱に比例して燃え上がるのが恋愛である以上、終わりは運命づけられている。「お互い好き同士だったはずなのに、なんで!?」という悲痛な叫びに対しては、だから「お互い好き同士だったからに決まってるだろ!」と逆ギレするしかない。

『だったらさあ、どうすりゃいいわけ!?』
『そうだなあ、こんなふうに考えてみたらどうだろう・・・』

当たり前だが、恋人は他人であって自分ではない。他人である以上、どんなに親しい間柄にもルールは必要なのだ。許しあうことが愛だというのは真理かもしれないが、そのニュアンスはほとんど誤解されている。
正しくは、“互いをよりよく禁じあう態度をあらかじめ許しあう”のが愛なのだ。
禁じること、禁じられることをおそれない姿勢、これこそ恋愛を長続きさせる秘訣なのである。

『なるほど、たしかにそうかもしれないけどさあ、あの無条件に肯定されちゃう感じってヤバイじゃん?あれ味わいたくて恋愛やってるようなとこだってあんだし、よりよく禁じあうったってつまんねえよ!』
『うんうん、そうだよねえ、だから君の恋は終わるんだよ』



【こういうやつが浮気する!または、ハウツー本のティータイム】

恋愛が破綻する仕組みについて書いたついでに、浮気しやすい人を見抜く方法についても書いておこう。
ルールをぶちこわすエネルギーを原動力とする性質から、恋愛はもともと反社会的なものだった。だから西欧社会は、自由恋愛の鼻先に結婚制度をくくりつけ、反社会的なそれを社会的な枠組みの中に回収しようとしてきた。
普段強気なくせに、恋人の前では涙もろい人の話を耳にすることがある。これは、「恥ずかしい涙は恥ずかしさを共有できる相手にだけ見せる」という、無意識の判断が為せるわざだろう。ルールをふまえた上での、礼儀にかなった甘えなのである。こういう人は浮気しにくい。
反対に、ところかまわず泣く人。このタイプがこどもだというのは、コントロールしきれない涙はおねしょと同じだからだ。そして、正しいおしっこと正しい涙が社会性の土台であるように、よく泣く人には反社会性の芽が備わっている。だれにでも涙を見せられるというのは、だれにでも裸を見せられることと同じだ。この手のニンゲンには浮気性が多いから、注意しよう。

『そんなこといってもさあ、周り見えなくなるような恋とか、浮気とか、やっぱちょっと楽しいじゃん?生きてるなあって感じするもん!』
『うんうん、そうだよねえ、だからどんどん、傷ついていけばいいんだよ』











※本文は拙文『おねしょの教科書』から枝分かれしたものです。そのため、用語や概念の多くを『おねしょの教科書』に負っています。未読の方は合わせてどうぞ。