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水が流れる音がする。今年定年を迎える父のトイレは長い。うむ、むーん。いきむ声が時折聞こえる。あたしを生んだ時もあんなふうにいきんだのだろうか。
「お父さんさ」
「うん?」
タオルで手を拭きつつ、振り向く父。顔が赤い。今日は会社で飲み会があったそうだ。一生分のおつかれさまを聞いたよ。寂しげにそう言っていた。
「あのね」
「うん」
「生んだんよね、あたし?」


戻れない日々のことを穂波は思う。いつもあの景色だ。放課後、夕日が差し込む教室。誰かが別れ話をしている。終わっていくのかな、と穂波は考えている。別段楽しいことがあったわけではない。悲しいことだってなかった気がする。それでも始まったからには終わるしかない。ランニング中の野球部の声が一瞬大きくなり、遠ざかっていく。
「ごめん、ちょっと」
誰だったかこれは。大岡くんだ。たしか体育会系の部活に入っていた気がする。2時間目の終わりにはいつも早弁をしていた。大岡くんは気まずそうな表情で繰り返す。
「ちょっと」
「あ、うん」
出て行けということだろう。卒業証書が入った筒を学生鞄に突っ込み、穂波は外に出る。
「ごめんね」
「いや」
大岡くんのこんな表情は初めて見た。女の子は泣いている。泣きながらこっちをじっと見ている。あの二人は戻らないだろう。さびしさを感じつつ、穂波は思う。うらやましいな。あたしはあんなふうに泣いたことがない。
向かう先は図書室だ。去年から新しく入ったその人は、いつも本を読んでいた。考えてみれば読書をしている司書というものを、穂波は彼以外に見たことがない。読書カードにハンコを押したり、蔵書を整理したり。本が好きな人にはいいかもしれないが、読書が好きな人には耐えられない仕事ではないだろうか。自分は特にどちらでもない穂波は、漠然とそんなふうに思っていた。


「なあ、なに読んでたん、あの時?」
「どの時?」
「あたしが高校生で、イギーさんが図書館にいた時」
「あー」
「いっつもなんか読んでたやん」
「そうやっけ」
「そう。めっちゃ憂鬱そうな顔して」
「憂鬱やったからなあ」
イギーは苦笑いする。右頬にぷくっとえくぼができる。穂波は人差し指でそこを押さえたい誘惑に駆られる。
「難しい本なんやろうなって」
「いやいや、全然そんなんちゃうよ。なんちゅうの、ビジネス本ちゅうの」
「ビジネス本?」
「働かずに生きていく方法、とか」
それのどこがビジネス本なのだろう。冗談なのか真面目なのか、穂波は時々判断に迷う。


音楽がやりたかったわけではなかった。聴くぶんにはよかったが、自分でやるなんて考えもしなかった。それがなぜライブハウスなんてやっているのだろう。イギーは思う。要するにバーがやりたかったのだ。好きな酒が飲めて、好きな音楽が聴ければ最高だな、ぐらいの安易な発想だった。新聞で四条河原町沿いにある老舗の酒蔵が潰れると知った時、これだと思った。音響設備を備えるために貯金を崩し、それでも足りないぶんは父親に借りた。イギーさんって意外と行動力あるよね。そんなふうに言われることもあるが、違う。当時はきっと、なにかにやけくそになりたかったのだ。金銭が絡む規模が大きければ大きいほど、やけくそが通じやすい気がしただけの話だ。
夏の暑い盛りに着工し、予定を大幅に超えてなんとかオープンに漕ぎつけた時、この箱が自分のやけくその正体なのだな、とイギーは不思議な感慨を抱いたものだ。うまい酒が飲めそうだ。くっく、と一人笑うイギーの姿はさぞや不気味だったろう。
場所代含め費用はかさんだが、建築会社に勤めている友人が出入りの業者を斡旋してくれたため、工事費用そのものは安く済んだ。
「で、どうすんだ、名前?」
最終工程の確認に来たその友人、鈴木に言われた時、イギーはとっさに意味がつかめなかった。
「名前って、なんの?」
「なんのって」
ほとんどがデスクワークとはいえ、下請けのコワモテどもと対等に渡り合っている鈴木の顔はなかなか迫力がある。目尻を下げ、大丈夫かこいつ、という表情で続ける。
「ここの名前だよ。候補ぐらいはあるんだろ?」
言われて初めて気付く。それまで一度も考えたことがなかったのだ。とはいえ、イギーにもプライドはある。
「決まってる」
言ってみた。
「なんだよ、聞かせろよ」
まずい。なにか答えなければ。とっさに出てきた言葉は、自分でも予想しないものだった。
「やたけた」
「やたけた?」
「そう」
「どういう意味だ?音楽用語なら俺はわからんが」
「いやいや、そんなえらそうなもんちゃうよ。やたけたっちゅうのは、そやな、やけくそとかやけのやんぱちとか、勢いだけで突っ走るって意味」
「へー。初めて聞いたな」
聞き覚えがないのは当然だ。鈴木は大学入学のために福島からこっちに越してきたのだから。地元での就職と迷って、結局大阪の中堅どころの会社に決めたらしい。あっち戻ってもろくな仕事ねえから。自嘲気味につぶやいていたことを思い出す。
やたけたというのは京都の方言だ。ただちょっと古い言葉だから、京都に住んでいる人間のほとんどが知らないだろう。
「悪くないが、ちょっとダサくないか?」
鈴木にはそう言われたが、本オープンの日が近づくに連れ、イギーは徐々にこの名前が気に入り始めていた。自分のやけくそが控えめに祝福されたような気がして嬉しかったのだ。「やけくそ」とそのまま付ける度胸もない自分にはぴったりだ。そう思った。


トラブルのようだ。PAの調子が悪いらしく、さっきから不穏なノイズが垂れ流されている。穂波は左手で耳を塞ぎ、右手でプラスチックのカップにビールを注いだ。金と引き換えに差し出すと、すごい音ですね、と同じく耳を塞ぎながら男が話しかけてきた。
「すみません、ちょっと機材の調子が良くないみたいで」
恐縮しつつ、穂波は思う。どうしてあたしが謝らなければいけないんだろう。この男にしたところで、ライブハウスという非日常の空間でただ女と話がしたいだけなのだ。機材トラブルはきっかけに過ぎない。堂々と声をかけるぐらいのことができないものだろうか。
隣りにいる奈菜は馴染みの客とダベっている。奈々は二ヶ月前に入ってきた子で、明るく屈託のない性格が男性スタッフから受けがいい。あたしもあんなふうになれたらな。穂波は女という生き物に、どうしても共感が持てない。昔からずっとそうだった。
耳をつん裂くようなノイズが止み、ようやくバンドが出てくる。
「おまたせしてすいませーん。遅れたぶんサービスしますんで。今日は最後まで楽しんでいってくださーい」
冗談じゃない。ライブハウスの使用時間は条例で決められている。時間をオーバーしてどやされるのはこっちの方なのだ。
「あ、けがだけはないように!」
うるせーおまえがけがしろ。沸き立つ客を尻目にこっそり毒づく。
「ワン、ツー、スリー、フォー!」
ドラムのカウントで1曲目がスタートする。地元では人気のあるパンクバンドだったが、穂波には雑音にしか聞こえなかった。


「今日どうすんの?」
ライブ終了後、ホールの掃除をしていると、イギーが寄ってきた。
「あ、行っていい?」
「うん」
友達でも恋人でもない、この関係はいつから始まったのだろう。大学の授業に出ず、サークルにも顔を出さなくなったころ、父親と買い物中に穂波はある広告と出会った。
「素敵な音楽に素敵なお酒、楽しいひとときをエンジョイするライブハウス“やたけた”オープニングスタッフ募集!」
最初の印象は、奇妙だ、というものだった。こういうことには明るくないが、ライブハウスが広告を打ってスタッフを募集するものだろうか。どことなく調子っぱずれの文句もあやしい。
「どうした」
野菜コーナーでキャベツの重さを比べていた父が戻ってくる。
「これ」
指差すと
「いいんじゃないか」
こともなげに父は言う。そうして穂波の初めてのアルバイトが始まったのだった。
イギーの最初の印象はどうだったろう。よく覚えていない。面接の時は、いいかげんそうな人だな、ぐらいにしか思わなかった。それがあの時の司書だと判明するのは後になってからのことだ。給料はちゃんと払ってもらえるだろうか。勢いで電話してみたはいいものの急に不安がよぎり始め、はあ、大丈夫です、などと曖昧な受け答えしかできなかったと記憶している。


「いやいや、それがよかってん。音楽愛してます、とか、そんなん来ても嫌やし」
「そういうもん?」
セックスが終わり、ベッドに寝そべって二人は話をしていた。
「そうそう」
煙草に火をつけ、気持ち良さそうに煙を吐き出すイギー。背骨がくっきり浮かび上がっている。この線がちょうど半分に背中を分けているのだ。穂波は観察した。本当に半分だろうか。
「ねえ」
「うん?」
「イギーさん、お母さんから生まれた?」
煙草の灰を空き缶の中に落としつつ、イギーはちょっと沈黙する。まずかっただろうか。
「お母さんって、ほなちゃんの?」
「ちゃう、イギーさんの」
「そりゃまあ。母親から生まれたよ、俺」
改めて言うと変やけど。そう付け加えて笑う。つっつきたくなるえくぼ。
「あたしはな、お父さんから生まれてん」
「えー」
「ほんま」
「お父さんって、ほなちゃんの?え、ちょっと待って」
少し考えて言う。
「男やんな?」
「うん」
「生まれたって、どっから?」
思わず噴き出してしまった。イギーのこういうところが、穂波は好きだ。ありそうもない話でも、嘘と決めてかかったりはしない。まず信じる。信じようとする。これはかなり難しいことだ。
「ほら、うち父子家庭やからさ、やっぱ聞くやん、お母さんはって」
「あー」
「で、しつこく聞いてたら、ある時、いないよお母さんなんて穂波はお父さんが生んだんだって」
「えー」
「やろ?けどなんかそん時は納得しちゃって、ちっちゃかったってのもあるけど、それ以来聞けへんまま」
「そっか」
イギーは考えた。この子は男の尻から生まれたのだろうか。なんだかむずがゆい気分だ。
穂波は考えた。男の尻から生まれたのかな、あたし。そういえばイギーさんのおしり、ちゃんと見たことないかも。あれは堂々と誇示するくせに、男の人はおしりを隠したがる。今まで数え切れないぐらい寝たはずなのに、イギーの尻の穴は一度も見たことがない。そこにはなにか重大な秘密が隠されているのだろうか。


朝早く帰ると、珍しく父は起きていた。テレビでなにかおもしろい番組をやっているらしく、それはないだろー、おかしいおかしい、と一人で突っ込みを入れている。
「おとうさん、これからずっと家いるん?」
「ああ、ほなみさえよければね。死ぬまでここ」
「そっか」
冷蔵庫からフルーツ牛乳を取り出しながら、穂波は言う。
「こないだ聞いたこと、覚えてる?」
「えー」
テレビに夢中で聞いていなかったらしい。
「本当にあたし生んだんって」
「ああ」
牛乳をテーブルに置き、軽く食べるものを探していると、菓子パンが見つかった。父が買っておいてくれたようだ。
「パンありがとね」
「うん」
「で、どうなん?」
「生んだよ」
妙にはっきりした声で、父は言う。
「僕が生んで、僕が育てた。今までずっと」
突然得たいの知れない感情がせり上がってくるのを感じながら、かろうじて穂波は言った。
「あほ」
聞こえていたかどうか、父はまたテレビに夢中になっている。ブラウン管の光が横顔を照らしている。


秘密なんてどうだっていいのかもしれない。穂波は思った。男の人には覗いちゃいけない穴がある。そこからはどうやら、いろいろなものが生まれてくるらしい。あたしはもう少し、それと仲良くなろう。そう決めた。