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悲しみの方角、二人の北

からだがあってよかった、とあなたは言った。どうして、と彼女は尋ねる。どうしてかわからない。そこでこんな話をした。
「男と女はもともとひとつだったんだ。そこに神様が雷を落とした。引き裂かれたからだは男と女に別れて、失われた半身を探してるってわけさ」
少し考えた後、彼女は言った。
「えっち」



それからはお決まりの展開。
「あたしのこと、好き?」
「好きだよ」
「どこが?」
「僕より背が低いところ」
「どれくらい好き?」
「僕より低い身長ぶん」
彼女は不満げだ。仕方なくあなたは言った。
「僕のこと、好き?」
「好きよ」
「どこが?」
「優しいところ」
「どれくらい好き?」
「死ぬほど!」



からだとこころの関係について、あなたは考える。
あなたは彼女のからだが好きだ。正確には自分の身長に満たないぶん、空想としてのからだが好きなのだ。あなたを満足させるのはいつも不足だけだった。
彼女はあなたの優しさが好きだった。からだは変わってもこころは変わらない。そう信じていた。しかし。
「こころは見えない。見えるのはからだに接続された時だけだ。彼女の頭を撫でる時、僕の右手に優しさが繋がる。同じ右手で彼女を殴ったとしたら。優しさは僕と繋がったままでいられるだろうか。少なくとも彼女には、そう見えないに違いない」



さらにあなたは思った。
「からだは変わっても、こころは変わらない」
嘘だ。からだもこころも変わる。重要なのはかけっこの速度なのだ。僕らの場合、彼女の背が伸びる速度と、僕の優しさが縮む速度。だが、こころの足は見えない。どんなスプリンターも幽霊には勝てやしない。僕の右手が彼女を打つ時、こころの足は一瞬にしてゴールテープを切るだろう。ゴールとは即ち、別れだ。不確かなのはいったいどっちだろう?



だからあなたは悲しみの話をしようとした。恋人たちはみな、悲しみについて話し合わなければいけない。それができない者はいずれ別れる運命にある。恋人同士がこころとからだの話をするのは、二人の間に悲しみを照らし出す挑戦に他ならない。
「からだがあってよかった」
この言葉はあなたが、おそるおそる踏み出した最初の一歩だったのだ。悲しみの方角へ。二人の北へ。だがあなたは躊躇し、昔見た映画の話をしてしまった。



そうか。今になってあなたは気付く。あの話は僕らの親密を証そうとするものじゃない。本当はこう言いたかったんだ。
「君と僕はもともとひとつのからだだった。なのにどうして、わかりあえないんだろう?」



ようやくあなたの足は冷気を感知する。彼女が訊く。
「あたしのこと、好き?」
うるさがるあなたに、重ねて言う。
「あなたのこと知りたいから、たくさん訊いちゃうの」
続く言葉を聞いて、あなたは彼女を評価した。
「あなたを知ることは、あなたに照らしてあたしを知ることよ」
頭のいい子だ。そう思った。



しかし問題はそんなところにはなかったのだ。問は次のように立てられるべきだった。
『知りたいという欲求はいつも、わかりあえないことの反語として現れるのではないか?』
あなたも彼女も、この点に思い至らなかった。



わかりあうとはどういうことか?
サルトルは「認識とは食べることだ」と言った。食べることはからだに取り込むこと、一体になることだ。ナイフとフォークを言葉に持ち替え、恋人たちはカニバリズムを目指す。するとその不可能性として、あるものが首をもたげてくる。悲しみ。恐るべき断然への予感。



だけど。あなたは抗弁する。スプーン一杯分の希望を抱いて。
「セックスが悲しみを埋めてくれるかもしれない。少なくともからだの断絶は、それによって埋まる」
つぶやきながらあなたは矛盾に気付いている。セックスによって断絶が埋まるなら、離れゆく瞬間にはいっそうの悲しみが生まれよう。それを埋めるためにまた…



またしても重要なのはかけっこだ。セックスが断絶を埋める速度、あなたと彼女の空白が開く速度。いったいどちらが速いだろう?あらゆる恋人たちの別れが、このような競走の敗北を意味していたなら…



「そうだった」
「え?」
彼女の反応は無視される。あなたはサルトルに引っ張られてふりだしに戻ったのだ。
そうだった。僕は勘違いしていた。からだとこころの話だったのだ、そもそも。からだとこころ、つまり存在。ほんの一瞬からだの断絶が埋まったところでどうなろう?存在としての悲しみ。二人の、僕と彼女だけが共有できる悲しみ。それは「在ることの悲しみ」なのだろうか?それとも「無いことの悲しみ」?



ようやくあなたはたどり着いた。北へ。存在が凍る瞬間へ。あなたの例え話は「無いことの悲しみ」を巡って始まったのだ。半身が無い、よって求める。このように。
そして今、「在ることの悲しみ」の方へ吸い寄せられていく。



望んでもいないのに勝手に生み落とされ、生まれた以上生きなければならない。思えば、「在ること」はどうしようもなくうざったいことだ。そんなふうに持て余されたからだが、なんとふたつもある。僕と彼女。悲しみを倍加してでも一緒にいる不可解。もしかしたら、僕は逆説を強く肯定したかったのかもしれない。
「からだがあってよかった」!



あなたは惜しいところまで来ている。だがあなたは言葉を信じすぎている。そもそも、言葉というものは存在しない。それはイメージのオブジェなのだ。
あなたの頭の中に漠然としたイメージがある。言葉にする。「悲しい」。この時、取りこぼしが生じる。さらに発話の過程で、言い違い聞き違いが伝達を阻害する。どうにか過不足なく伝わったとして、あなたの「悲しい」という言葉は、相手の頭の中でイメージ変換される。誤読の可能性はここにおいて最大に達するだろう。
つまり、会話という行為は、少なくとも三重の誤解の上に成り立っているのだ。理解し合おうと言葉を重ねれば重ねるほど、そのズレは大きくなっていくに違いない。存在の断絶の前には、いっそう絶望的な言葉の断絶があったのだ。
残念ながらあなたはそこまで気付かない。



「ねえ」
だから話しかけてしまう。言葉でもって、彼女に。
「なに?」
「好きだよ」
「突然ねえ」
「あのね」
「うん」
「いろんなことを考えたんだ。君のこと、僕のこと、からだとこころのこと」
「なにそれ」
「わかんなくていいよ」
「またそうやって…」
「ごめんごめん。でも違うんだ、そうじゃなくて…」
「なによ」
「好きなんだ」
「わかったってば」



そうして彼女は出かける支度を始める。
あなたと彼女は二日後に最初の喧嘩をし、ちょうど四ヶ月後に別れる。悲しみへ向かう勇気がなかったからなのか、それはわからない。ともかくこの文章は、北にたどり着けない恋人たちのイメージは、ここで終わる。
彼女がチークを塗り、あなたが冷蔵庫を開けたところでさようなら。
ごきげんよう!