風立ちぬ1

風立ちぬ見てきました。
ジブリ作品で初めていいなあ~と思いました。
以下にも書いたとおり、この映画を批評することにはまったく意味がありません。だから僕は風立ちぬをだしにして物語を書きはじめたのですが、そっちがちょっととんでもないことになってきたので、息抜きがてら、評論家宇野常寛の『風立ちぬ』評を受けつつ、いやでもさあ~という感じに僕なりの問題提起をして、するだけしたら、後はみんなで考えよ~って感じの文章を書きました。
コーヒーブレークにどうぞ。





宇野常寛の『風立ちぬ』論をYouTubeで聞いた。いいも悪いもない、宇野常寛が見た『風立ちぬ』はそりゃそうなるだろうな~、という感想。彼の立場にあってこの作品を絶賛していたら、それはほとんど転向を意味する。「1mmも共感できなかった」と言い切る姿勢は、その意味で正しいし、立派なのだ。


だがもちろん、僕の立場は違う。『風立ちぬ』を批評することには意味がない。批評的に見れば、どうしたって宇野常寛のような結論に辿り着かざるを得ない。ロマンチストという体裁いい仮面を被った上で女性の自由・自主独立精神を収奪する、甘えきった男性ゲージュツカのマッチョイズム垂れ流し映画、と。
たしかにその通りなのだ。だけどそんなことはだれにでもわかるし、わかったところで飛べやしない。僕は宮崎駿がせっかく用意してくれた『風立ちぬ』というおもちゃでもっと遊びたいし、なるたけ高く飛びたい。
芸術家=夢見がちな唯美主義者、政治家=苦い味を知る行動家という対立図式の狭間で美しい肢体をよじらせる戦闘機。政治家でもあるカプローニや本庄に比して、いかにも純粋な芸術家である二郎は、自らの創造物に芸術的価値を付与する絶対指標として愛という概念を導入し、菜穂子をその溶鉱炉に投げこむ。
菜穂子には二郎を好きになる要素がいくつもあるが、二郎の側にそれは見えない。乱暴に言って“女ならだれでもよかった”ようにしか思えない。彼女がもたらしてくれる愛が、強く美しい炎を生む薪である限り。
だが見落としてならないのは、プロとアマの違いはあれど、菜穂子もまた二郎と同じ芸術家だという点だ。ありていに言えば、二人は若く無鉄砲な芸術家カップルなのだ。このことはじっくり考えてみる必要がある。宇野常寛はこの問題を軽く見たがために、落とし穴にハマってしまったのではないか。
思うに、宇野が指摘するマッチョイズムは二重の暴力性にかかっている。女性をミューズに仕立てあげるため、愛という美名の下、自由・自主独立の精神を収奪すること。そして、自らのうちにあるそうした暴力性を顧みようとしない傲慢。
だが、二郎は果たして、菜穂子をミューズに仕立てあげたかったのだろうか?またそうであるなら、菜穂子はどの程度二郎の期待に応えたのだろう?
菜穂子は言う。病に伏す自らの傍らで作業に勤しむ二郎に向かって、薄情とも思える態度を甘受しつつ。「仕事してる時のあなたの顔が好き」
芸術家は孤独だ。二郎の仕事である戦闘機製作は二郎の芸術行為だ。より正確には、殺戮の道具たる戦闘機製作の過程から、デザイン作業を美学的に取り出し、自らの芸術的営為と思い換えているのである。
無論、そのことは菜穂子も承知だ。だから彼女が言う「あなたの仕事」とは「二郎の芸術行為」を指す。菜穂子が二郎に取ってのミューズであるとすれば、愛する者から発されるこのようなセリフは、他のなににも増して強力な福音として響くだろう。
一方、菜穂子も芸術家だ。二郎と違いアマチュアだが、印象派風の絵を描いている。にも関わらず、二郎は彼女の作品に対して一言の感想も漏らさない。彼にはまるで“芸術家としての菜穂子”の姿が見えていないかのようなのだ。
今一度確認してみよう。二郎と菜穂子は若く無鉄砲な芸術家カップルである。それも、裕福な家庭環境、フランス語の詩を挨拶代わりに笑み交わすという出会い方からして、こう言ってよければ、かなり鼻持ちならないタイプの芸術家カップルだ。
このような二人が結ばれた場合、まず真っ先に互いの作品を批評し、称え合うものではないだろうか?若く無鉄砲でディレッタントな芸術家カップルに取って、「あなたってば天才よ」「君の方こそ!」式の会話は、セックスより気持ちいいものに思えてならない。
だから本来なら、件の初夜のシーン(可憐なエロスに溢れた素晴らしい場面!)より先に、互いの作品を褒め合うシーンが来るはずなのである。まして二郎と再会した時、風の立つなか、菜穂子は絵を描いているのだ。丘の上でこれ見よがしにゲージュツしてる美少女の姿を、どうしたらあんなに完全スルーできるのだろう?
そりゃ二郎は「こんな絵が描けるなんて、才能ありますね」とは言わないだろう。しかし、例の母性本能をくすぐる朴訥とした調子で「美しい絵ですね」ぐらい言いそうなものではないか?ところが二郎には菜穂子の描く絵が見えない。無意識の判断に従い、菜穂子から芸術家としての側面を切り捨ててしまうのである。
以上の解釈に従えば、菜穂子は芸術家としての道を断念し、二郎の芸術に奉仕する人生を選んだのだと見ることが可能だろう。これはまるっきり宇野常寛の見方に沿う形になりそうだが、違う。どこか強烈な違和感が残る。
愛という美名の下(二郎は菜穂子を褒める代わり、ただ「愛してる」と言うばかりだ)、無意識に菜穂子の芸術家としての道を閉ざし、病気を人質に取りながら自由を奪い、完璧なミューズを作りあげる二郎。二郎の甘えを許した上で、女性としての肉体を捨て、ミューズとして生きる覚悟を決める菜穂子。
やや図式的に過ぎるきらいはあれど、解釈上、こうした理解に誤ちはないはずだ。だが果たして、『風立ちぬ』は本当にそれだけの映画なのだろうか?このような疑問に引きずられるようにして、先の問題提起に光が当たる。即ち、二郎は菜穂子をミューズに仕立てあげたかったのか、否か?
ここに至ってようやく宇野常寛が見落とした重要素が登場する。それはカプローニの存在だ。飛行機の設計が二郎の芸術行為であるなら、幾たび夢に登場し、創作上の霊感を与えるカプローニこそ、ミューズの名にふさわしい。
だがこの解釈は実に微妙なのである。まず、カプローニは男だ。会話上のやり取りの問題もある。カプローニが設計における具体的なアイデアを二郎に教え諭すことは一度もない。彼はただ問いかけるのみなのだ。「風は立っているか?」
その都度「はい!」と力強く答える二郎。ここにおいてのみ、勉強ができすぎる理系人間にありがちなピュアで鈍感な青年・二郎は引っ込み、明るくハキハキしゃべる一本気な少年・二郎が出てくる。なぜだろう?
簡単だ。カプローニは少年時代の二郎がこしらえた神だからである。「風は立っているか?」はインスピレーションを与える言葉ではない。文字通りの啓示なのだ。教え諭すことなどあろうはずがない。神は告げ知らせるのみなのだ。
ならば、芸術創作に有益な刺激を直接的にもたらすのはだれかといえば、親友でありライバルでもある本庄で間違いないだろう。
芸術家が名声を得るためには三つのものが必要だと言われる。即ち、パトロン、ライバル、ミューズ。もしかすると最も重要かもしれない要素をここに付け加えるなら、それは神の啓示だ。おおげさな話ではない。この世には神の啓示を受けてある日突然芸術家に目覚める人間が多数存在するのだ。
彼らはたいてい正規の芸術教育を受けておらず、なんらかの精神疾患を抱えている例が多い。強度の妄想狂なのだ。このような特徴を持つ芸術家をアウトサイダーアーティストと呼ぶ。
神カプローニの啓示を受けて飛行機の設計者として目覚めるという、極めてアウトサイダーアーティスト的な出自を持ちながら、二郎は通常の芸術家に必要な要素をもすべて手にしている。パトロンは軍部、ライバルは本庄、ミューズは菜穂子。
かくして稀代の芸術家、堀越二郎零戦という至高の一品を完成させるに至るのである。