シャンソン

季節は熱いトタン屋根の上。だらしない猫に挨拶する帰り道。
今でも君を、この曲が好き、あの人が嫌い、という許し方を、その身振りの始まりから終わりまで。



シャンソンはフランス語で歌という意味で、その歌はなんでもないすべてを指す。そう教えてくれたのは船乗りだった。鉄の匂いの混じったしょっぱい風。腑分けされる魚の目を覗きこみながら、僕は言った。
シャンソンが歌なら、あなたのいう歌を僕は好きになりたいと思います。それから歌じゃないもの、歌になりそこねたものも取りこぼさないよう、丁寧にその気配を嗅ぎ分けたいと思います。はじめてピアノを弾いた時、母が僕に言ったんです。まるでノイズだわ、猫の欠伸の方がましなくらい!10歳の誕生日、彼女の頬には皺7つ。母より早く生き、母より遅く死ぬ自分を見つけたものです。ねえ船乗りさん、ノイズという言葉の語源はnausee、船酔いだそうですね。あなたの暮らしはもしかしたらシャンソンにならないノイズのようなものかもしれません。だけど僕はそれを愛したい、心からそう思うんです。
すると生臭い手のひらを僕の頭に乗せ、二カッと笑って船乗りは言った。
「ありがとよ、坊や。だが歌にならねえもんなんてこの世にゃあねえんだ。油まみれの俺の体も、デタラメな坊やのピアノも、みーんなちゃんと歌ってる。よく覚えときな」




夏休み
汗だくで変声する時計
プール



僕はなんにも変わっちゃいない。適量というものがわからないまま。サラダにはドレッシングをかけすぎるし、電車に乗れば切符をなくす。プレゼントはいつだって買いすぎてしまう。
本当のことを言えば、今すぐ歩けなくなってしまいたい。なにひとつできないからだで美しくいたい。



「とある一日の恋のうちに
いつまでも続く恋の
喜びと苦しみのすべてが
凝縮されて見出されるものだ
それは船乗りのさだめ
そして俺たちの愛しい人のさだめ
素早く身を寄せ
唇を近づける」
“LA MARINE”、“海の匂い”という曲。
「喜びや仏頂面や
仲違いや仲直りの数々が
いつかのちょっとした恋のうちに
見出されるものだ
ふたりは笑い  キスを交わした
眼や胸の上
髪のなかにもキスをした
産みたての玉子みたいに熱いやつを」
聞いたか?産みたての玉子だってさ!

 


それから僕は大人になった。いろいろなことを諦め、偉大でありふれたシャンソンのひとつになった。船乗りの言葉の意味が少しずつわかりかけてきたこの頃。
調子っぱずれな音が聞こえる。娘がピアノを弾いているのだろう。階下に降り、とびきりいじわるな顔を作って笑いかける。
「なんてひどい音だいハニー、猫の欠伸かと思ったよ」
すると彼女は嬉しそうに叫ぶのだ。
「猫ちゃんニャーニャー!パパ大好き!」