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ポロックとサティ

イメージは千々に乱れて飛んでいた。そいつらの尻尾を捕まえてひとところに集めるのに精一杯で、ポロックは女にかまっている暇がなかった。心の砂楼に幾層にも積み重なったあれやこれやの観念を一枚ずつ引き剥がす作業は、現実世界に還元された暁には「優雅な想像力の飛翔」「抽象が具象を兼ねることのあり得べき証明」などと批評家の絶賛を浴びたが、剥落したイメージは内臓をせり上がって喉から出る寸前に霧散することが大半で、ポロックはわざとらしい咳をしてなんとかそのよすがを掴みとろうとするのだが、ただ喉が痛くなるばかりで、それが彼のうがい薬を常備している理由であった。 



若き画家はこうした悩みを「ピースオブケイク」と呼んだ。折り重なったイデアがちょうどケーキのガトーショコラのように見えたからである。あるいは、「こんな問題は大したことがないのだ。ちょちょいのちょいで解決だ。」と自分を安堵させ、鼓舞する意味合いで「a piece of cake(おちゃのこさいさい)」というダブルミーニングを含意したのかもしれない。 
いずれにせよ、彼らしいエピソードである。 



しかし、ポロックがガトーショコラの層と水平に格闘している傍ら、一人の青年がスプーンを垂直に入れてぱくっとやり、そのままむしゃむしゃごっくんとやってしまった事件はあまりに有名である。 
ポロックより更に一回り年若いその画家の名はエリック・サティ。なるたけふざけたように聞こえる題名を付けることに全力を傾けたこの放蕩者の作曲家は、タイトルを思案する間のひまつぶしに絵を描いた。 
それが戦場カメラマンとして初のピューリッツァー賞を受賞し、「物体を捉える目は哲学を解体し、抽象の中に閉じ込める」とまで言わしめた天才画家の自信をこなごなに打ち砕き、卵を割り小麦粉を混ぜてカップケーキにしてしまったのだ。 




1950年8月。サティは自宅地下室でカンバスの全面に液体糊を垂らし、そこに紅しょうがをばらまいて自画像を描いた。紅しょうがの腐り具合による変色の差を利用して顔面に陰翳を付けるばかりか、10m離れた場所から見ると虹色のスペクトルを描いているという離れ業をもやってのけた。そうして描いた絵には一瞥もくれず、外套を着込みマフラーを巻いていつも通りの散歩に繰り出した彼は、鼻歌をくちずさみながら不意に「犬のためのぶよぶよとした前奏曲」というタイトルを思い付いて小躍りした。 
「でかしたぞ!これで批評家どもは見当外れな元ネタ探しと勝手な精神分析で盛り上がってくれるだろう。この僕にはなんの思惑も存在しないというのに!」 
それから落ち葉を漁り、前日の雨で濡れた石をひっくり返してコオロギや祈り虫(キリスト教圏におけるカマキリの別称。警戒時に両の鎌を顔の前にぴったり揃えて掲げる姿勢が祈りを捧げているように見えることから。同様の理由で日本の一部地域では「拝み虫」とも呼ばれる。)、ネムリユスリカや果てには名前すら知らない虫たちを次々と採集してビニール袋に入れ、片足しか弾まない不器用なスキップで家に帰った。 
さっそく描きかけの絵に向かうと、ビニール袋からだんご虫を一匹取りだし、恐るべき馬鹿力でカンバスに叩き付けた。己をコルトデリンジャーから掃射された弾丸とでも勘違いしたこの哀れな生き物は、べちゃっと音を立てて黒っぽい汁をまき散らした。同様に今度は立派な角を持ったカブト虫を掴みとり、大リーグ投手もかくやというフォームによってカンバスに投げ付けた。静まり返ったアトリエに奇妙な音が響き、白いカンバスは茶色い装飾をまとって折れ曲がった角を生やした。こんなふうにしてサティは、かつて奴隷海岸などと揶揄された一帯の森で採取した計285匹の虫たちを例外なくフルスイング。一瞬の生と死を絵画の中に閉じ込めたのだった。 




紅しょうがを血肉とする自己を一分の隙もなく取り囲む羽根やら触覚やら尻尾やらをはみ出して蠢く狂った色彩。うん、実に素晴らしい。 
作品の出来にすっかり満足したサティは、すぐさまクラズナリー第三小学校のジョン・ハワード校長に電話をかけ、彼が後に取り組むことになる大曲のタイトル同様たっぷりと嫌がらせをしてから、再び外套を着込んで外に出た。小一時間ほど車を飛ばして学校に着くやいなや、二階渡り廊下の奥にある音楽室にこもり、アイデアを忘れないうちに「犬のためのぶよぶよした前奏曲」の作曲にとりかかる。まずはピンクとブルーに塗られたピアニカを交互に四台配置し、吹き口を同時に加えこむ。さらに一年生徒の唾液が残ったリコーダーを鼻の穴に突き刺し、もう一方に細く削ったフランスパンを詰め込む。それから頭にメトロノームを乗せてゆらゆらとあたりをさまよう時間を固着し、右手でグランドピアノを弾き、左手で木琴を叩き、両足に挟んだスティックで自在にドラムを叩いた。 
このインスピレーションに満ちた独自の奏法が一体どのような音色を奏でたのかは記録に残っていないが、確かなのはものの数分で曲ができあがったということ、サティの鼻孔が数mm広がって鏡を覗きこむたびに落ち込んだという事実である。 





さて、ひねくれ者のクラシック作曲家が音楽室で忘我の境地に達していたその頃、彼のアトリエにはジャクソン・ポロックがいた。浮かれるあまり鍵をかけ忘れていたのである。当時ポロックはアメリカ抽象画檀に新風を吹き込む「恐るべき子供たち」(“Les Artistes Terribles”そこには若き日のジャン・リュック・ゴダールや、まだオンワード社のフランス人デザイナーに作品を持ち込む前のジャン・ポール・ゴルティエ、後にサングラスの老舗となる会社を設立するルックス・オティカ・レイバンらの姿もあった。)の一人に数えられていたが、それはあくまでムーブメントとしての認識であり、個人として受けた評価はまだまだ正当なものとは言い難かった。簡単に言えば、てめえの絵だけで食っていけるほどには売れていなかった。 
そこで彼が始めた副業が泥棒だったのである。 




自らアーティストと名乗りながらもなんら公式の評価を得られていない若手の「エセ」芸術家どものアトリエに忍び込み、彼らが愛する両親やパトロン(多くの場合、水商売の年上女性を指す。)、ホモのアルバイト先の上司などからかき集めた軍資金を根こそぎ奪うのだ。「ひひひ、ざまあみろ、頭からっぽのアーティスト気取りが。肉体派のエセどもが。」内心で毒づきながら、その金で画材と食料とうがい薬を買った。 
特にむかっ腹の立つ数人の若手画家の部屋には盗聴器を仕掛け、彼らの悲鳴とその後慰めに体を預ける情婦との営み、そして遂にはぼろ切れのように捨てられる寸前「待ってくれ!もう少しで絵が売れるから!それまでの辛抱じゃないかベイビー?俺ってば絶対ビッグになるからよぉ!」という説得むなしく後ろ手にバタンとドアが閉められる音までを盗聴し、ぐふぐふと喜ぶのだった。 
ポロック自身はこうした行為を「拡散するイメージを他者の生活にあてはめることによってキャッチする」ための段階的修練と捉えていたが、実のところ彼は単なる変態で、画学生だった時分あまりにもてなかった経験が今ごろ肩越しに重くのしかかっているに相違なかった。 




さて、自宅書斎で盗聴音声を肴にブランデーを舐めるのを至上の喜びとする冴えない天才は、全身が震えるような衝撃と出会っていた。 
「なんだ、これは!」 
もちろん、ひんやりした地下室の壁が答えるはずもない。 
「なんだあ!こりゃあ!」 
念のためもう一度叫んでみた。目前にあるとんでもないものの存在をしっかりと認識するために。それは、一言でいうならイメージの地獄であった。 
二百号という常識外れに巨大なカンバスは一面どす黒く汚れ、中央にピンクで描かれた人物像に責め苦を味わわせるような勢いでとぐろを巻いている。さらに異常なことには、人物像が腐った紅しょうがで描かれていることであり、黒い染みに思える部分がおびただしい数の虫たちのごつごつした死骸で構成されていることであった。 
それは、ポロックが後年悩まされることになる「抽象が無機を志向することによって、人間の内に眠る暖かさや魂の慟哭を無視してしまうのではないか。」という問いに、鮮やかな解答を与えるものであった。 
当時のポロックはもともと何もない地点から徹底的に意味を排した作品を打ち出すことによって逆説的に意味の無意味性を打ち破り、人間性に回帰するのではなく回顧するべきだと提唱してこの問題を克服しようとしたが、一部の辛口批評家や同業者から「消極的前進にほかならない」という批判を浴びていた。 




それがどうだろう。 
目の前の醜悪で神々しいひとつの作品は、そうした疑問をことごとく粉砕し、あまつさえ「肉体性を持った抽象」という西洋からの精神的自立を望んだアメリカ画檀が概念的に掲げ、しかし一度はその困難の下に挫折したテーマを完璧に具現化してさえいたのだ。 
右手から力が抜け、手にしていた数枚の百ドル紙幣が床に落ちるのを感じた。がっくりと、膝が折れる。 
俺は…俺はいったいなにをしているんだ?こんなところで、若手の芽を摘むことに必死か?俺は誰だ?単なるごろつきの変態か?違う、俺は画家だ!ジャクソン・ポロックだ!抽象画檀をひっくり返す天才芸術家だ!ちくしょう!こんな、こんなとんでもないものを作るやつがいるなんて…ちくしょう!ちくしょう!俺は、俺はいったいなにをやっているんだ! 
ポロックは右手の握りこぶしで力いっぱい壁を叩くと、ゆっくりと顔を上げた。そこには、雨が上がった後に昇る太陽のように爽やかで、神聖な決意を固めた者の表情が宿っていた。 






窃盗という数ある犯罪の中でもとびきり優雅で悪趣味な行為の最中に天啓に打たれたポロックは、いつもなら執拗なまでに繰り返す(彼は独自に三段階のチェック機構を設けていた。)侵入の証拠湮滅もそこそこに飛んで帰り、すぐさま作品製作に取り組む・・・・ようなことは一切せず、サティの部屋に仕掛けてきた盗聴器のアンテナをセットした。 
やがて夜になり地下室に響き出した嗚咽交じりのうめき声を聞くにつけ、彼が自分同様に女にモテないブ男であることを知ったポロックは、ぐふぐふと気持ち悪い笑いを漏らした。