美しくうなだれるガラス

ガラス越しにあなたを見る逆さまのあなたが常態となる屈折角をガラス越しにあなたが見る逆さまのわたしに当てはめてみてもドーナツを食べるようにはドーナツの穴を食べられないうらみをドーナツの甘味によって紛らわしながらわたしはドーナツの穴がドーナツより暗い甘さを隠し持つに違いないと考えはじめていた。



食物を盛りつける目的に沿って皿が生まれた。つまり皿においては本質が実存に先行しているのに対し、目的を与えられることなく生まれてきた人間は実存が本質を抜かしたズルのためにあらかじめの懐疑を抱えこむ、人はなぜ生きるのか?こうした思想は世紀末久しく戦争の絶えたフランスが罹患した憂鬱症であり、いうまでもなく平和で穏やかな期間は交戦期間に比べ僅かに過ぎず、歴史を俯瞰した際、戦争の束の間のはざかい期こそむしろ平和の正体であるわけだから、なぜ?と問いかける甘えきった仕草は浴室の鼻歌同様甲斐なく、よく響くようだ。
あらゆる宗教思想は実存が本質に先行してしまう人間の苦痛を養分に成長してきたといっても過言ではない。うすぼんやりした生きる不安に対して明白かつ巨大な恐怖をぶつけることでなぜ?の方向をずらし、懐疑ではなく信仰に目を向けさせること、本来的な疑いを恐怖によって遠ざける機能のゆえにそれらは隆盛を誇ってきた。宗教が終末思想と縁が切れないのはそのためだ。



鏡と空白。
そこになにかがあるということは、なにもなかった事実となかったために担保されていた不在の美がいまや汚されたという痕跡を示しはしないだろうか。
不在は実存に先行する。いかにも当然の真理をドーナツの穴が食べられないわたしは上手く噛みしめられずにいる。昨夜ガラス越しに会った逆さまのあなた(ほくろの位置が違っていた・・・)はどんなに願っても手中に入らないと知り、失われた逆さまのあなたを讃える代わりそっと猫の背を撫でたものだったが。
なにもないことは不在が犯される急迫性のゆえに美しい。
ミスタードーナツで苦いコーヒーを啜りながらわたしは甘ったるいドーナツを食べたいわけではない。その空白の甘さをこそ口に含みたいのに。しかしどうだろう、まったき不在のぐるりを囲んで空洞が出現するようにガラス越しの逆さまのあなたが現に対峙するあなたから生まれたように、不在は実存に照らされてはじめて発見されるのだ。
なにもないことをなにもないまま味わえない滑稽さ!



ガラス越しの逆さまのあなたしか知らないわたしは鏡であるために現に存在するあなたを覗き見る逆説を誇らしく思い、ドーナツの穴が食べられない苦さをドーナツの甘味で紛らわす羞恥を手繰りながら、本質は不在にしかないのだと気づきはじめている。
実存は本質に先行し不在は実存に先行する。ならば、不在もまた本質に先行するはずだ。美はあらゆる傷に先駆けて姿を現し、同時に目的という目的から見放されている。
いつか逆さまのあなたとドーナツの穴を一緒する未来に向かってうなだれながら。