映画『ブレードランナー2049』評 ~未来は、さみしい~

ブレードランナー2049見てきた。まだ全然消化できてないので、反芻する。マフラー姿の女の子かわいいなあ。

ブレードランナー:ニューファッションとしての未来。狂躁的かつ強迫神経症的。絶えず4種類ほどの音が鳴っており、「なんか変なのが〜」という日本語音声がループされる箇所など、映像・音ともにヒップホップ的リミックス感覚が目覚ましい。

ブレードランナー2049:未来は、さみしい。耳鳴りのようにまっしろ。限界を超えた破壊は大地を平らかにし、深刻な汚染はなげやりな浄化に繋がり、積み重ねられたノイズは無音のピークに近づいてゆく。もはや進歩と停滞の区別がつかなくなった静けさ。ひとりぼっちで進むんだ。

ロシア・東欧好きすぎやんけ問題。まず、主人公の略称Kはチェコの作家カフカからだろう。ロケ地の多くはハンガリーブダペスト。ドーム型の建造物にはロシア語が書かれ、ジョイの持ち出す本はロシアからの亡命貴族ナボコフ。そしてなにより、映像が圧倒的にタルコフスキー

冒頭、サッパー・モートンの家の台所で鍋が静かに湯気を上げているシーンからして、ロシアの映像詩人タルコフスキーの激ネム超傑作『ストーカー』へのオマージュだし、Kの子供時代、工場での追跡劇を俯瞰断面図で見せるカットもまたしかり。しかし、真髄はあの大木の枯れ方にこそあり!

ところが、これだけあからさまなロシアスキー攻撃を受けているにも関わらず、奇妙にもロシア的なものを感じず。はて。フェイクなロシア憧憬=擬ロシア感は感じなくもないが、これはいったいどうしたことだろう?

あらかじめフェイクとしてのロシア憧憬=擬ロシア感に関するいくつかの事柄 ①擬ロシア感は、東欧出身ではない人間がユートピアディストピアとして設定し直したロシアに漂う ②映画史には、擬ロシア感を表現したフィルムの系譜が国境を超えて存在する ③脱輪は、擬ロシアの愛好者である

あなたを入力してもわたしを入力しても“良き人間”として均一に出力する装置=共産主義の夢は潰えたが、果たして、我々が今生きている世界はその失敗に学んだだろうか? テクノロジーの発展、いや、進歩という概念そのものが、本当は人間を孤独にするのではないのか?

というような漠然とした不安と焦燥こそ近代批判・文明批判精神の種であり、この種が映像表現として花開く時、「ほ〜らいわんこっちゃない、事実として大失敗してるじゃんか〜」的証拠として、ノスタルジックなロシアが回帰してくるのである。苦い痛みと廃墟の美を伴って。

したがって…擬ロシア感覚は近代批判精神に根ざしており…近代の末路としての未来を描くSFの衣をまとって映像化され…そうして作られた映画は必ずといっていいほど白く、肌寒い。

未来は、さみしい。と書いたが、この映画における未来は戯画化された近代に他ならず、だからこそ、一度未来が挫折した場所としてのロシアが召還されているのであって、「未来像を更新できていない」という批判は的外れだ。 本作は言う。「未来は、さみしい。でもその未来って今だよね?」

これは前作との大きな違いで、『ブレードランナー』が描く未来は近代の延長線から切れている。そのためにいつまでも新しく、ファッショナブルなのだ。 対して2049の未来は、オシャレじゃない。過去に参照点があるぶん、ダサい。だけどさみしさがファッションである必要なんかない。

ドゥニ・ヴィルヌーヴから始まる擬ロシア映画探訪!さあ肩の力抜いて〜 ①ヴィルヌーヴといえば、ブレイクのきっかけとなった『複製された男』。本作の画作りと静けさ、不条理がノスタルジーを抱きこんだような味わいは、今からすれば真に擬ロシア的だった。オールディーズへの偏愛も〇。

ロシア映画探訪 ②『複製された男』と同様の分身テーマを扱って興味深かったのが『嗤う分身』。ドストエフスキー原作ながらイギリス映画というねじれが既に擬ロシア的なところ、日本の昭和歌謡を劇中歌に使用するなど、『ブレードランナー』同様のアジアンエキゾ感覚が加わり酩酊を誘う。

ロシア映画探訪 ②『複製された男』と同様の分身テーマを扱って興味深かったのが『嗤う分身』。ドストエフスキー原作ながらイギリス映画というねじれが既に擬ロシア的なところ、日本の昭和歌謡を劇中歌に使用するなど、『ブレードランナー』同様のアジアンエキゾ感覚が加わり酩酊を誘う。

ドストエフスキーの同じ原作を使ってこうも違いが出るものか!と驚嘆したい向きには、イタリア産『ベルトルッチの分身』がおすすめ。強烈な色彩と尊大な自意識が不条理を覆い尽くさんばかりに膨らんでいく様は、まさにベルトルッチの真骨頂!ロシアを食うイタリア。

④意外なところで、オフビートなブラックコメディ『ロブスター』の色調は擬ロシア的ではないか?監督のヨルゴス・ランティモスはギリシャ山下敦弘か?そういえばなんとなーく『ばかのハコ船』を想起したり、『リアリズムの宿』のつげ義春なんてロシア的不条理だしなあ。

飛んで、隠し球塚本晋也六月の蛇』。擬ロシア感が近代批判精神の元にSFを擬態して現れることは書いたが、彼はさしずめ近代フェティシストとでも呼ぶべき作家で、本作はその真骨頂。無菌室めいた近代建築がエロスの野生と雨(!)によって腐蝕してゆく夢幻劇。

お話はゆるやかに螺旋を描き……ドゥニ・ヴィルヌーヴには擬ロシア映画作家としての側面があり、『ブレードランナー2049』は擬ロシア映画の最新傑作に間違いない。とはいえ僕が本作にロシアを感じなかったのは、模倣を脱した独自のヴィルヌーヴ調が完成しつつあるからだろう。

だから、監督のロシアスキーアピールに反して僕がちっともロシアを感じなかったことはこの作品の瑕ではない。とはいえここまでオリジナルな領域に差し掛かっているのなら、わざわざタルコフスキーやる必要もねーんじゃねーかと蛇足ながら。

むしろ擬ロシア映画作家としてのヴィルヌーヴは『複製された男』がピークなのでは?『メッセージ』含む過去作見てないからなんとも。 とにかく、2049のヴィルヌーヴヴィルヌーヴでしかなかった。

擬ロシアをけっ飛ばしたヴィルヌーヴのとくちょー ①暴力描写が超クール 北野武ヌーヴェルヴァーグデ・パルマアベルフェラーラなんかも感じつつ、ちょっとすごい ②アメリカンオールディーズへの憧憬 プレスリーとモンローのホログラムの前で決闘、なんつークールさは①にも通じ

②の続き、アメリカンオールディーズへの憧憬が狂気と同居している監督にデヴィッド・リンチジョン・カーペンターがいるが、特にリンチの50年代ハリウッド愛は尋常じゃなく、このあたり、古典から前衛への一見不可解な跳躍という点で、画家ダリの印象派コンプレックスとも重なったり。

③後乗せサクサク演出 サッパー・モートンを解任し、水道で手を洗うK。ただ血を洗い流しているのかと思いきや、握られた拳が開き、モートンの目玉が出てくる。 先輩登場シーン。暗がりに犬の姿が浮かび、続いて声、最後に反対側からデッカードが姿を現す。等々

③の続き、この手の演出はともすればあざとく見えがちだが、本作では見事にキマっており、かっこいい。焦らして焦らして、後乗せサクサク。赤いたぬきより緑のきつねだ。

結論。白いロシアより赤いきつねより緑のたぬき

日本語字幕について ブレードランナーではなかなかファンキーな意訳・超訳が施されており、それはそれで映画の雰囲気に合っていたのだが、2049では堅実な直訳調に。好感を抱く。 映画における訳業の問題は興味深く、韓国ドラマなんか見てても字幕と吹き替えの相違を追っちゃったり。

ジャパニメーション(蔑称)からのフィードバック? 青髪の巨大ジョイが屈みこんでKに触れるシーンでパプリカの日本人形が頭をよぎり、青髪は綾波?と安直に思うも、綾波デザインの元ネタはイギリスのテレビドラマ…しかし、マトリックスのようなアニメ妄想具現化の雰囲気はうっすらと。

ねむい