映画『ミツバチのささやき』評 ~ユウワクするむこうがわ~

みなみ会館で『ミツバチのささやき』見てきた。みなみ会館ミツバチのささやき、といえばささやかな因縁があり、その昔ご好意でチケットを譲っていただき、調子に乗って遊び倒して見に行ったら、冒頭からきれいに寝たという(笑)

後にも先にもあれほど極楽な睡眠体験はなかった……じゃなくって、いいですか!今回はリベンジマッチなんですよ!

というわけで映画『ミツバチのささやき』の感想をつらつらと。 まず、これは奇跡的なバランスの上に成り立った傑作ですね。素晴らしいです。

見事寝倒したてめえの黒歴史に加え、大槻ケンヂの名エッセイ『変な映画を見た!』でオーケンもまた寝倒した事実を知るに及び、ビクトル・エリセなんかクソだ!と開き直っていたこの僕こそがキングオブクソでした。

うーんしかしちょっと、どこからどう手をつけるべきかためらう映画でもありますねー。 例えば。父親の部屋に飾られた絵画(執拗に注意喚起される)と、娘部屋にある絵画との比較から、イコンと宗教学を絡めていく道もあるし、全体を心理的なホラーと捉え、“怪物としての子供”を跡付ける道もある。

とりあえず冒頭から追ってみるね、『ミツバチのささやき』。 舞台は1940年、スペインのとある小村。内戦終結後の荒涼とした風景のなかを一台のトラックがやって来る。はしゃぎ回り、群がる子供たち。お待ちかねの映画興行がやってきたのだ。

「今までやった中の最高傑作だよ!」しゃがれ声の興行師が触れこむ。映画はフランケンシュタイン、双子の姉妹アナとイサベルもくいいるように見入る。フランケンシュタイン博士に創造された名も無き怪物は、無垢な少女と出会うことで人間性に目覚めるが、最後には少女を殺してしまい、自身も討たれる。

妹のアナはそっと姉に尋ねる。「どうして女の子殺しちゃったの?」わずらわしさ半分、姉のイサベルが返す。「あとで教えてあげる」 純真無垢であまえんぼうのアナ、やや大人に差しかかり始めたしっかり者のイサベル。早くも見て取れる二人の関係は、全編を握るひとつの鍵になる。

映画を終えて眠りにつく頃、アナはベッドで同じ疑問を繰り返す。「後で教えてくれるって言った!」困ったイサベルはとっさの作り話を思いつく。「女の子も怪物も、ほんとは死んでないのよ。あれは映画だから。怪物は生きてるの。会ったことだってあるわ」

そして怪物は生き始める…… 二人を取り巻く人達。父親は養蜂家、ガラスケースに入れた蜂の巣を観察する。「蜂たちのメカニズムは神秘的だ…」 一家の部屋の窓には蜂の巣と同じ六角形の飾り格子が付いており、その中に住む人間もまた蜂と同じ集団の不合理な関係性に左右されることが示唆される。

憂鬱な表情でだれかに手紙を書く母親。内容から、いまだ戦争から帰還せざる息子に向けたものだと知れる。この映画において母の存在は最初から最後まで気薄で、頼りなげに映る。それはおそらく、息子の消息を思うあまり彼女が自分のために生きることをやめてしまったからだろう。

父親の部屋に飾られた絵。老いた賢者が積み上げられた書物を前に肘をつき、放心したように頭上を仰いでいる。横には頭蓋骨。これはルネサンス期に流行したヴァニタス(虚栄)絵画のパターンだ。本は叡智の象徴だが、いくら知性を磨こうとも、肉体は必ず滅びる。死を想え、というメッセージなのだ。

この一枚の絵を、キャメラは幾度も強調して映し出す。ラストシーン。机に突っ伏して眠る父親の姿は、背後にある絵の老人とほとんど同じ構図になっている。なにをかいわんや…

双子の部屋にある絵画の主題はなんだろう?幼子キリストの手を引く天使?違う気がする… いずれにせよこの映画は、怪物が女の子を、幻想が現実を、ディオニュソス的混沌がアポロン的理性を連れ去るお話なわけだが、この点を注釈するには目と井戸の対比を持ち出さなければならない。

理科の授業なのだろう、人体模型を持ち出して先生「最後に足りないパーツはなに?」正解は目だった。アナがパネルを嵌めると、人体模型の目がクローズアップされる。 目。これこそ近代精神の象徴だ。啓蒙enlightenmentとは、目に見えないものが見えるように光を当てることなのだ。

見えないものが見えるよう、わからないものがわかるよう、視覚の技術を更新し、言葉でもって名前をつけ、近代は、畏怖すべき崇高な自然から暗闇と恐怖とを追放してきたのだ。世界の中心軸を神から理性に取り替えつつ。 その姿は、神から火を盗んで罰されたプロメテウスを彷彿とさせる。

フランケンシュタインは、もともとメアリ・シェリーが生んだ小説だが(冒頭で上映されるフランケンシュタイン映画に出てくる女の子の名前は、だからメアリという)、この小説には実は副題が付いている。曰く、“現代のプロメテウス”。

つまり、神にしか許されない人間の創造行為に手を出してしまったフランケンシュタイン博士の不遜こそがプロメテウスであり、怪物はいわばその懲罰として生まれた存在なわけだ。フランケンシュタイン映画の恐さとは、近代的理性に化け物じみた前近代が殴りこみをかけるところにある。

だからもちろん、本作における怪物も単なるモンスターであるはずがなく、前近代的なもの=野蛮かつ不気味なエネルギーの総体を指している。そこで象徴的なのが、怪物が隠れている家にある井戸だ。井戸の深さ暗さは、まさに啓蒙の光が当たらぬ邪悪の湧いて出るところなのである。

かてて加えて、目は身体の最上部にあり、井戸は地面を掘り下げて作られる。精神分析学的な枠組みを持ち出すまでもなく、不気味なものはいつも下からやってくるのだ。

と、ここまでは自明として、しかし本作はなお我々に疑問を投げかけ、誘惑するのをやめない。 本当は双子のうちのどちらが(先に)向こう側へ行ったのだろう?いつどのタイミングで行ったのだろう?あるいは家族の全員が…? というような。

実際、蜂の巣よりも神秘的で、何度も見返したくなる映画こそ『ミツバチのささやき』なのでした。