人間がほどけてゆく記録 〜『マックイーン:モードの反逆児』に寄せて〜

だいたいほとんどの人は服を着たり脱いだりする。不思議だ。服が人間を着たり脱いだりしてるのではないか、と思うこともある。
外に出る、というのは大変な冒険で、裸のままでは出られない。体に服を着せ、心に感情を纏って、行く。行ったら帰ってくるのがふつうだから、着たり脱いだりする。毎日。
毎日毎日。
服がほつれるように人間がほつれることもある。



ナイマンの音楽はマックイーンのお気に入りで、二人には親交もあったそう。ショーを見れば一目瞭然、モダン・バロックの探求者として大いに通じる部分がある。
バロックは“歪んだ真珠”という意味の美術用語で、過剰や欠損を抱くある種のいびつさや、反対物の衝突によって生まれるドラマに美を見出す態度をいう。その特徴は聖なる人殺し画家・カラヴァッジョの絵画にあらかた表出していると言っていいだろう。光と影の極端なコントラストのもとに描き出されるのは、生と死、美と醜、純真と悪徳といったモチーフの対決であり、見る者に是非を問わずにはおかない。ぼんやりした賛意より、むしろ剥き出しの敵意の方を歓迎する姿勢こそバロックなのだ。
マックイーンは言う。
「観客になにかを感じさせることができたら僕の仕事は成功なんだ。称賛でも否定でもどっちでもいい」
「セックス・ドラッグ・ロックンロール、それが僕のショーだ。興奮させ、鳥肌を立たせる。僕が求めるのは心臓発作であり、救急車だ」
彼が許せないのはほどほど、まあまあ、そこそこということである。
「嫌な気分になった?」
「いいえ」
「それは残念」
好きか、嫌いか。
曖昧を避けいずれを問う姿勢は魂の政治学だ。わけて、ぶつけて、火花散らす。そのただなかに身を置かずにはいられない。
マックイーンはあらゆる二項対立の間のスラッシュになることを望んだ。
好き/嫌い 
美/醜
ファッション/モダンアート
ビジネス/芸術
デザイナー/エンジニア
エレガンス/サヴェージ
オブセッション/ショーアップ
そして、生/死
さまざまなレベルでの衝突を生む根源は、いつの日かマックイーンという人間内部に生じた亀裂、服と冗談を愛する青年・リーと伝説的なファッションデザイナー・アレキサンダーとの衝突にほかならなかった。
映画は言う。
「私たち制作陣は、アレキサンダー・マックイーンというブランドの背後にいるリー・アレキサンダー・マックイーンという男に興味を持ったんだ。“リー”と“アレキサンダー”の間にはいつもある種の緊張があるように思えた」 (公式パンフレットより)


なにかしら演技をする者に要求されるのは、役とともに遠くまで泳ぎ、深く潜ることである。だが注意しなければならない。水を吸い、重くなったからだは脱げなくなり、自分をふたたび着ることができなくなってしまう。
着たら脱いで。
脱いだら着る。
それがルール。
16歳からロンドンの老舗テーラーで修行をはじめ、デザインからパターンや裁断・縫製に至るまであらゆる技術をマスターしたマックイーン。自他ともに認める服のスペシャリストであったはずの彼が見落としたのは、バカみたいに単純なルールだった。


例えば、ナイマンとの蜜月、音楽と映像の濃厚なマリアージュで知られるピーター・グリーナウェイはどうだろう?カラヴァッジョの伝記映画を撮ったデレク・ジャーマンは?
ファッションである。あんなものは計算され尽くした完璧なファッションに過ぎない。これが「アートではない」という意味の批判に聞こえるなら、ファッションショーは映画より劣るのだろうか?

マックイーンのショーは、一見するとグリーナウェイの極めつけに露悪的な作品『コックと泥棒、その妻と愛人』に似ているように思える。だが、表現者として近いのは草間彌生だろう。意識の奥底に沈み、トラウマとなって固着した記憶を作品に昇華することで祓う。初期を代表するコレクション『ハイランド・レイプ』のテーマを“女性蔑視”と非難するのは、草間の絵画に見られる男根モチーフを“色情狂”となじるも同然である。事実はむしろ逆で、中にあって、耐えられないから、外に出すのだ。マックイーンの方法はエクソシズムとしてのアートである。


5つの章から成る本作では、各章の冒頭でスカルのオブジェが映される。これはマックイーンの甥であるゲーリーによるデザインで、ルネサンス絵画に特徴的な主題“メメント・モリ(死を想え)”が反映されているという。
ルネサンス期の思潮が興味深いのは、ギリシア美術にならってプラトン的な理想の肉体美を称揚する一方、老人や病人のみすぼらしい体に激しい嫌悪を抱いた点だ。どんなに若く着飾ったところで死んだらみんなこれ、と画中に置かれるドクロはひょっとして意地悪いバランサーだったのか。
化粧を落とし、服を脱がせ、肉を剥ぎ取れば、どんな人間も一個の骸骨。だが、マックイーンの功績は、たかが骸骨を飾り立てる抵抗こそがファッションであり、生きることなのだと開き直った(いわば、メメント・モリを反転させた)ところにあるのではないだろうか。
ブランドの重要アイコンでもあるスカルは、金色に、薔薇色に、緑の鱗状に装飾され、血にまみれる。蝶や蛾、色とりどりの花やハヤブサを着る。


生涯を通じ、容貌魁偉な人間や不具者をモデルにしたピーター・ウィトキンの作品と、やはり本質的な双子だ。
彼もまた、身体的・精神的な欠損を花や鳥、虫たちの過剰な息吹で彩り、新たな生命サイクルのなかで呼吸させた。
美術史のあからさまな引用は思わせぶりをきらうバロックの方法論だが、マックイーンの場合、部外者の特権も大きいだろう。彼が学んだセント・マーチンズ美術大学の教師は語る。
「彼は本や映画といった芸術を全然知らなかった。だから余計なフィルターを通さず楽しめるのよ」
若き日のマックイーンは、服以外のところから服作りの霊感を得るやり方を知って大きなショックを受けたともいう。
美術史を専門に学んだ人間に取り、好きな作品であればあるほど直接的な引用には含羞がつきまとうもの。本気でロックを愛する人間が、すっかり人口に膾炙し“ファッション”となったローリング・ストーンズニルヴァーナのTシャツをおいそれとは着られないように。その点、他に専門分野を持つ者の受容はゆるやかである。
恥ずかしげもなく堂々とアートを援用するマックイーンの姿は、ヒップホップ界のレジェンドKOHHがなんの衒いもなくウォーホル・デュシャンといった固有名詞を使う身振り同様、かっこよく、うらやましく映る。二人に共通する特質がもうひとつ。まばゆいばかりの無邪気さだ。


映画は約二時間。
終わりに向かうにつれ、無邪気さがすり減っていくことが悲しくてたまらない。皮肉な笑いのセンスは父親譲りだそうだが、人間、皮肉のひとつも飛ばせなくなってしまってはおしまいだ。
こころとからだは同時に痩せ細っていく。死せる骸骨は着こみ、生きているマックイーンは脱ぎ捨てていく。
「仕事を放り出すなんてできないよ。僕は50人の従業員を抱えてるんだ」
最後まで脱げなかったのは一番お気に入りの服、アレキサンダーという名の一張羅だった。
ずっとずっと中にあって、こわいから、取り出してみた。おそるおそる着てみたら、これがピッタリ。ハマってる。だんだん脱げなくなっていった。

すべてのスラッシュは、本当は縫い合わせるための針だったのかもしれない。しかし望まれたのは融合ではなく対決であり、バロックの病が天才的な無邪気によって乗り越えられた(そこがナイマンやグリーナウェイ、他の誰とも異なるマックイーンの個性だ)時代は終わりを告げた。スラッシュが消滅すると同時に、からだは糸のようにほどけていった。
一人の人間がほどけてゆく記録は、ファッションという営みの根源にまで遡る。