pure evil! pure horror! 〜『ハロウィン』讃〜

ただただ強い、ただただ不死身、ただただ人殺し、そしてしゃべらない。
一人の人間がただただに至るまでの過程原因情動すべてをすっ飛ばし、膨大な計算の果てに取り出された悪意の公式のみを呈示するシンプルさによって、ジョン・カーペンターの『ハロウィン』(78)は名作となり得た。
理由のわからないものが一番恐い、などと俗に言われるが、この作品における説明放棄の手つきの美しさをナメてはいけない。カーペンターが試みたのは、『ミスト』のように超自然的な恐怖が日常の論理を侵食していくわけでも、『エクソシスト』のように神と悪魔の絶えざる争いの一幕として感得されるわけでも、まして『SAW』のようにスリル満点のジェットコースターが謎を連れ去るわけでもなく、とにかく“ただ単純にすっ飛ばす”という画期的な手法(?)だったのだ。その身も蓋もない数学的エレガンスゆえに、『ハロウィン』はホラー映画の歴史のなかに特異な位置を占め続けているのである。


そんな伝説に挑もうというのだから伊達ではない。デヴィッド・ゴードン・グリーン監督による正統続編・2018年版『ハロウィン』では、原典からちょうど40年後の殺人鬼ブギーマンの復活が描かれる。
1作目はただただ、でよかった。おもしろかった。だが2作目は?同じことをやっても意味がない。原因不明なものは不明だからおもしろいのだとして、不明なままの状態を繰り返し見せられるのは退屈だろう。と言って怪物ブギーマンの来歴を明かすのは興ざめでしかない。いったいどうすれば安易な物語化に頼ることなく観客の関心を持続させられるのか?
選ばれたのは、シンプルさはそのまま、ホラー展開の常道をハズしまくるという離れ業だった。


本作には一見テーマ性があるように思える。即ち、“pure evil(純粋な悪)とはなにか?”という哲学的なテーマだ。
40年間誰ともしゃべらず、息を吸うように人を殺すブギーマン=マイケル・マイヤーズ。果たして彼に理性や感情は認められるのか?ターゲットの選択はランダムなのか、それともなんらかの法則に従っているのか?殺人という行為はどのように位置付けられているのだろう?
これらの疑問は、カーペンター版で省略されていた悪の公式を引き出すための計算部分に当たり、突き詰めればいくらでもおもしろくできそうなテーマではある。長年マイケルを担当する医師からかくのごとき視点が提示されることにより、映画はにわかに物語化に抗する深みを獲得していく……


のかと思いきや!
ぐしゃっ。
踏み潰される。
本質は表層に、哲学という見えないシステムは目に見える悪意(これこそがブギーマンなのだが)によって足蹴にされるのだ。
う〜ん、爽快!
ああだこうだとつまらぬ分析をしたくなってしまう頭がさくさく踏み潰されていくこの快感。
絶対死ななそうなやつがいきなり死に、
頼りになりそうなやつは出てこなくなり、
正気に見えたやつが実は狂っていて、
狂気を生きている人間が正気だということが明らかになる
容赦ない裏切りが最高に気持ちいいのである。


一度聴いたら忘れられない例のテーマ曲はキック強めにアップデートされている。ツイスト効かせたカーペンター版へのシーンオマージュがあちこちに鏤められ、ホラーファンをニヤリとさせてくれもする。
だが2018年版『ハロウィン』が最も素晴らしいのは、“ただ単純にすっ飛ばす”という1作目の方法を“とにかく徹底して踏み潰す”蛮行に読み替え、数学的エレガンスの上に突き抜けたカタルシスを付け加えた点だろう。
万人におすすめできる、まごう方なき傑作。100%のpure horrorである。