しらない恍惚を盗む人〜聖なる鹿殺し、ヨルゴス・ランティモス、神話的境界〜

聖なる鹿殺し。前作『ロブスター』で未婚者が動物に変えられてしまう寓話世界を描き注目を集めたギリシア出身の監督ヨルゴス・ランティモスによる五つ目の長編作だ。
主人公は高名な心臓外科医。眼科医の妻に娘と息子の二人の子供を持ち、庭付きの家で裕福な生活を送っている。ある日、主人公と曰くありげな交流を持つ少年が一家を訪ねるところから、恐るべき異変が起こりはじめる。息子は突然立てなくなり、次いで娘までもーーそれまで礼儀正しかったはずの少年は牙を剥いて主人公を弾劾し、待ち受ける残酷な運命について語り出す。
「先生は手術の失敗で僕のお父さんを殺した。だから先生も家族のうちだれか一人を選び、殺さなくちゃならない。もし選べなければ、彼らは立てなくなり、食事を受けつけなくなり、最後に血の涙を流して、数時間後に死ぬ。先生は死なないから安心して。一人選ぶか、三人死ぬかだよ」
かくして医学的努力のことごとくが水泡に帰し、不気味な予言が成就されていくなか、渦中の一家は様々に葛藤し、絶望する。そして浮かび上がってくる家庭内の愛憎関係、生殺与奪の権を握る父親への悲壮なアピール合戦。彼が最後に下した結論とはーー

恐ろしい映画である。
童話めいて残酷で身も蓋もない設定といい、バリー・コーガン演じる少年の怪物じみた存在感といい、家族、愛、幸福といった善良なキーワードが限界状況下で篩にかけられていく展開といい、ほとんど呪われているとしか思えないほどだ。
前作『ロブスター』に見られた特徴ーーシンメトリーに凝った絵画的な画作り、神のごとき俯瞰を多用するカメラ、不穏な静寂に彩られた音楽、語らないことで想像を促す台詞回しーーは本作でも変わらず、これらすべてが結びつくことにより、ランティモス作品だけが持つ特殊な雰囲気が醸成されている。同時に、『ロブスター』にあったブラックな笑いがすっぽり抜け落ちている点も見逃せない。そのため本作は、くすりと笑える瑣末事の集積がやがて途方もない事態を導いてゆく『ロブスター』とは異なり、観賞者に身じろぎできぬほどの緊張を強いる代わり、よりいっそうの無慈悲な美しさを獲得してもいる。その美しさとは、神の美しさであり、汗の匂いの絶えた夜の美しさであり、人間の身の丈を超えた巨大建築の美しさであろう。良くも悪くも、ひとつの美の彼岸へ突き抜けてしまった作品だと言っていい。
だがひょっとすると、事態はもう少し複雑なのかもしれない。ユーモアは排除されているのではなく、より洗練された形で溶かしこまれていると見るべきかもしれないのだ。いったいあの映画のどこに!激昂する向きがあるのも承知の上で、いくつか例を挙げてみよう。
ニコール・キッドマン演じる主人公の妻がある重大な秘密を引き出すため、夫の同僚でもある麻酔科医を誘惑するシーン。駐車場に停められた一台の車。男のものらしき独白が途切れ途切れに聞こえてくる。続いてカメラが車内を映し出すと、なんと妻は麻酔科医に手コキをしている真っ最中なのだ!男は、快楽にあえぎ、身悶えながら、なんとか言葉を紡ぎ出しているのだった。あられもない醜態。むきだしの官能。にも関わらず、妻の顔は滑稽なほど事務的で、疲れている。
これは『ロブスター』の冒頭、ホテルのメイドが主人公に手コキをする場面を想起させずにおかない。キュートな制服を着たメイドが無表情にことをなす姿と、なすがままの主人公の情けなさとの対比が、とぼけた味を醸し出していたものだ。
そもそも、対価求めといてセックスせんのかい!というツッコミ含め、これはランティモス流のユーモアの発露と取れるだろう。
そしてまた、あの映画史上に残る供犠選択のシーン。家族全員を目隠しして椅子に座らせ、同じく目隠しした主人公が中央でぐるぐる回転しながら発砲する。だれか一人を遂に選べなかった男が考え出した、恨みっこなしの画期的殺人法だ。権威ある医師が無様に回転する姿もさることながら、一度、二度、と撃ち損ね、そのたび目隠しを取って確認するまぬけさも絶品。前作に引き続き主演を務めたコリン・ファレルは、ことここに至って知的エリートの仮面を投げ捨て、急速に『ロブスター』のぼんくら男の身振りへと接近する。この極端な落差は笑いを誘うに充分だろう。
おわかりいただけただろうか?以上は実にユーモラスで、笑えるていのものなのだ。とはいえ、「なんぼなんでもよう笑わん!」のも否定できない。こうした矛盾は最終的に、そもそも人間に取って笑いとはなにか?という大問題を召喚するものだが、ここはひとまず、ランティモスは笑いを捨てたわけではなく、ギリギリ笑えた前作から一歩踏み込み、もはや笑えない苛烈なユーモアへ辿り着いたのだ、ということが確認できれば十分だろう。同時に、シリアスの裏に溶かしこまれた笑いが恐怖を倍増している点も押さえておきたい。

そもそも、なぜランティモスは単純で明るい笑いを作らないのだろう?ねじれたユーモアが肉体の官能と絡み合っているわけは?“もはや笑えない笑い”を通じて、映画はいったいなにを描き出そうとしているのか?
『聖なる鹿殺し』におけるユーモアの取り扱い方は重要である。笑いと恐怖にまつわる様々な違和に応答していく試みこそ、本作を読み解く鍵となるからだ。さらにまた、この鍵は見る者を当惑させる謎とも呼応するに違いない。
「こんなにも冷たく恐ろしいのになぜ、映画全体がエロティックに感じられるのだろう?ピリピリと粟立つ肌の官能は、いかなる種類のものなのだろう?」

恐怖。『聖なる鹿殺し』のうちには、およそあらゆる種類のこわさが確認される。
家族殺しというテーマ(文化人類学的なタブーの恐怖)、とことんまで追い詰められる人間心理(サイコスリラーとしての恐怖)、多くの謎が解明されない不条理(見えない仕組みに対するカフカ的な恐怖)
そしてなにより、人の温もりが徹底して排除された世界そのものに対する恐怖。そうなのだ。ここで生き、呼吸しているはずの人物たちには、およそ人間味というものが感じられない。彼らは皆一様にどこかよそよそしく、他人行儀で、うそくさい。だれかに真情を打ち明けることはおろか、生死のかかった状況ですら積極的行動を取ろうとしない。あらかじめ呪いを受け入れ、神に服従するかのごとき従順さーー
先に触れた道具立て(人間をオブジェのように捉えるカメラ、絵画的完璧さがしらじらしく映る画面構成)が、無機質で冷たい印象をもたらしていることは疑いないものの、彼らの肉体はなにかいっそう深いところで喪われているように感じられる。
そう、映画序盤、まだなにごともなく幸福なはずの夫婦のベッドシーンにおいてさえ!
全身麻酔?」投げかけられた不可解な問いに夫が頷くと、下着姿の妻はベッドからだらり半身を投げ出し、そのままじっと動かない。やがて夫は妻の体に静かに覆い被さっていくが、直接的な行為は描かれずにしまう。
奇妙なやり取りだ。いっさいの説明が省かれているため推測に頼るしかないが、おそらく夫は、全身麻酔を施された患者役を演じる妻に興奮を覚えるのではないか?一種の性的倒錯と考えられるが、彼の職業が医師であること、麻酔で硬直した体は人形や死体を思わせること、行為が中断されることから察するに、ひょっとすると彼は性的不能であるのかもしれない。ひとたびそのような視座に立って映画を見渡してみると、全体がやたら肉体に関するほのめかしに満ちている癖、その実ただの一度もまっとうな性体験、肉体のコミュニケーションが成就されない事実に気付く。
夫はある種のゲーム性を介してしか妻に欲情できず、少年の母親から誘惑されてもはねのけてしまう。血気盛んな年頃の少年と娘の恋愛でさえこの引き写しで、ベッドで誘惑する娘を少年はすげなく拒絶。唯一エロチックな描写がなされる妻と麻酔科医の浮気シーンですら、挿入はなく、どこか事務的な気配が漂うのだ。
いったいこれはどうしたことだろう?あたかも映画そのものがインポテンツにでも陥ったようではないか!
ランティモス作品の冷たい人工性。それはなにより、人物の肉体を舞台に展開されている事実に、今更ながら気付かずにはおれない。

セックスが描かれない世界。肉体と肉体の、人間と人間の、ナマな交渉が断絶した世界。
そもそも、西欧文化圏、キリスト教圏における肉体とはなんだろう?
それは、その用途を性と生理に引き裂かれた地図のようなものである。
生理。日常の生活感覚としての身体。こちらは清浄なものとしてあり、生命の大いなる器である。
性。エロティックなオブジェとしての身体。こちらは不浄のものとしてあり、あらゆる欲とケガレの象徴である。
自然より上位に神を置くキリスト教は、本来自然のものである体を独自に解釈し直さなければならなかった。結果、ねじれた論理の隙間から、肉体の相克、引き裂かれた地図の悲鳴が漏れだしたのだ。
例えば、妊娠。聖書の創世記に曰く“神の似姿”として作られた人間は、その再生産をもっぱら人間同士の営みに負っている。セックスである。セックスなくして生命の誕生はありえない。ところが性交渉はしばしば汚らわしいものとされ、行為の果実としての生命だけが尊ばれるのだ。
聖母マリア処女懐胎神話は、この矛盾を解消するために編み出されたものと言えよう。性交渉なしで授かった子供であるゆえにキリストは聖なる存在というわけだが、これは妙な話ではないだろうか?なぜそんな無茶を押し通してまでセックスを否定しなければならないのか?
簡単な話だ。人間の欲望、とりわけ性欲は、キリスト教が重んじる秩序と規律を乱す要因となりかねないからである。秩序を司るのは神であり、規律は神の家たる教会に発している。信仰よりきもちいい営みを野放しにしておいてはならない。手前勝手な欲望に気を散らし、神の言い分、聖書の文言、教会の説教を聞き入れてもらえなくなっては困るのだ。皆に同じ方向を向いてもらうため、キリスト教は欲望を独占管理することにした。だが、愛欲だけは……それは人間の最も度しがたい種類の欲望に属するだけでなく、キリスト教以前の原始宗教に明らかな通り、祝祭と舞踏に結びついた歴史を有してもいたのだ。手に負えないもの、管理不可能な欲望は禁じるほかない。かくしてセックスは汚らわしいものと決めつけられ、遠ざけられるに至った。とはいえ全面的に禁じてしまっては生活が立ち行かないから、一夫一妻の条件付きでかろうじて容認されたのだ。

ことほど左様に、キリスト教とは夥しい矛盾とパラドクスの体系に他ならない。十字架はイエスの時代以前には口にするもおぞましい不浄な物体だったのが、磔刑以降は信仰のシンボルとして扱われ、人類の罪を贖うため死を選んだイエスは三日後に復活、信者たちはホームレスの惨殺死体が描かれた聖像に祈りを捧げる。
性と生理に留まらず、聖と俗、清浄と不浄、果ては生と死に至るまで。本来鋭く対立するはずのさまざまな概念が、肉体を媒介として、自在に反転・往還してゆくスリリングな地平。これこそがキリスト教の聖なる磁場なのだ。

ところがまったく皮肉なことに、まさにこうした反転にこそエロティシズムが見出されてきた歴史も見逃せない。
もっとも重要なのが供犠=サクリファイスの観念だ。キリストが十字架に吊るされたのは人類の罪を贖うためだったーーこれ自体、イエスの無惨な死「神よ、なぜ我を見捨てたもうたか!」を正当化すべく捏造されたストーリーであり、キリスト教の起点となった第一の嘘なのだが(イエス本来の教えは、愛の肝要と収穫の知恵を説く素朴なものだった)ーーアメリカで死刑制度が完全撤廃されない理由のひとつとして、このサクリファイスへの共感があると言われている。絞首刑に処される囚人にイエスの姿を重ね合わせ、崇敬に近い念を抱いているのではないかというのだ。
にわかには信じがたい話だが、使徒パウロによる“十字架の神学”以降、キリスト教徒がイエスの肉体に深い関心を寄せるようになったことはたしかだ。教会で催される聖体拝領では、パンがキリストの肉体に、ワインがキリストの血に変じられ、高々と掲げられたうえで信者にふるまわれる。ここにおいてミサの熱狂は最高潮に達するという。とりわけ信仰の篤い者のなかには、単なる共感を超えた過激な妄想を抱く者もいたようだ。聖女ヒルデガルドや聖女メヒティルトはイエスと淫らな行為に及ぶ幻視を幾度も経験し、深く葛藤した。
かつてカトリック教徒であった異端の思想家バタイユによれば、「エロティシズムとは禁忌の侵犯」であり、存在しないルールは破れない道理、性を取り締まったキリスト教は、不覚にも禁忌を侵犯する愉しみをも準備してしまったことになる。敬虔な信者に限って目眩がするほどエロティックな幻視を体験している事実には、こうして説明がつく。戒律に忠実であればあるほど、ルールを破る誘惑も強くなるわけだ。

古代ギリシアから連綿と続く霊肉二元論の影響も無視できない。プラトンは「肉体は魂の牢獄である」と言った。肉体。この不浄の檻に囚われているせいで魂は神を観照できず、世界を直接に感じることができない。プラトンの神は唯一神ではなく自然や森羅万象に近い観念を指すが、古代ギリシアにおける肉体蔑視・霊魂偏重思想はキリスト教の暗渠へと流れ込み、時に過激な形で発露することになった。
宗教の危機の時代であった中世に登場した鞭打ち苦行者は、自身のからだを鞭で痛めつけ、罰したという。なぜそんなことを?もとよりきたないからだを貶める。さらにきたなくなる。価値が下がる。すると相対的に魂の価値が上昇する。神に救われやすくなるーーざっとこんな次第なのだが、信者たちがレトリックめいた教義を本気で信じて苦痛に耐えたかといえばさにあらず。肉体を傷つける行為に快感を見出す者もいたらしい。暴力的な他者を条件に持つ性癖は今日にも見られるが、この場合の他者はDV夫でもSMの女王でもなく、神なのだ。あの人のために傷つくあたし、をはるかに超えた、神様のために犠牲になるあたし!絶対者に潔白を担保された上でのマゾヒズムはとびきりの快感をもたらしたに違いない。

さらに言えば、異端邪教の類がしばしば性に寛容であり、乱交を奨励するのも、肉体を貶めて魂を純化する逆説に拠っている場合が多い。問題は、セックスが単なる運動に過ぎない以上、目的が快楽にあれ肉体の毀損にあれ、外からはまったく見分けがつかないということである。聖なる教説を隠れ蓑に、異端の信者たちは夜ごと淫らな快楽に耽ったそうだ。しかし裏を返せば、これは、たとえ当人がどれだけ快楽本位に行為していようと、肉体が聖なる次元に回収されてしまう事態を指しはしないだろうか?「自己自身の快楽ではない」という建て前が、実際に快楽を所有から遠ざけてしまう皮肉。ここにおいて行為者は聖なる全体に個を奪われ、からだは固有の重量を失う。
官能。その極点における恍惚=エクスタシーは、ラテン語のエクスタシス(脱自)に語源を持ち、じぶんを喪失した状態を指す。個人の意思が神の名のもとに大いなる全体へと統合されていく体験。この山の頂においては、官能を伴わない聖性も聖性を伴わない官能もありえない。かくして聖と俗はまったき合一を得るのだ。

信仰者たちがこのように特殊な官能を味わえるようになったのはもちろん神という観念が発明されたからであり、透明な境界がギロチンのごとく降下し、肉体を性と生理に、聖と俗に引き裂いたからにほかならない。分裂は統合を目指し、エロティックな横断を夢見る。だが注意が必要だ。こうした感覚の領野は、境界が生み出すパラドクスが無意識化されている世界において、しばしば畏怖の念を伴って現れざるを得ない。なぜなら、それは普段意識に上ることのない問題ーー自分のからだがあらかじめ文化的に分断されているというようなーーを表面化し、アイデンティティに深い動揺をもたらすからである。
かくしてキリスト教の神は二重の衝撃と関わる。戦慄と官能。ある種の聖性を帯びた矛盾を見出す時、人は隠された断絶を覗きこむ形になり、恐れを抱く。同時に、来たるべき合一の時を予感し、肌のざわめく官能に酔うのだ。このように、自らの存在を信じる者に切断の裂傷と再接続の欲望をもたらす装置としての境界(ここではキリスト教の神)を“神話的境界”と名付けたい。
神話的、と呼ぶ理由は二つある。一つには、謎めいた本作のタイトル『聖なる鹿殺し』が、ギリシア神話中のエピソード“アウリスのイピゲネイア”にちなむこと。
ギリシア軍の総大将アガメムノーンは、狩りの最中、誤って女神アルテミスの寵愛する鹿を殺してしまう。怒り狂ったアルテミスは、アガメムノーンに愛娘イピゲネイアを生贄に差し出すよう要求するーーこの場合、手術中に患者を死なせてしまった主人公がアガメムノーン、彼を脅迫する少年がアルテミス、犠牲になる家族がイピゲネイアに擬せられていることは明らかだ。とはいえ残念ながら、こうした符牒が作品理解に寄与する部分はほとんどない。せいぜいが監督からの意地悪いサービスと受け取るのが相応として、現実味を欠いた設定が一種神話的なリアリティに支えられている点は確認しておきたい。
二つには、ほとんど例外的な権力構造を秘めている点で、境界が神話と類似した性質を持つこと。神話が世界の成り立ちを示す起源の物語であることは言うまでもないが、それは同時にさらなる起源への問いを禁じる物語でもあるため、極めて権力的である。青年ナルキッソス水仙の花に変じることに論理的な説明を求める者などいまい。それはただ、そうだからそうなのである。神話的境界についても同じことが言える。境界が聖なるしるしを帯びるのは、その根拠よりむしろ無根拠が信じられる限りにおいてであり、裏を返せば、なんらかの法体系や教義が真に完成を見るのは、論理的正当性を欠いたファンタジックなストーリーを人々が受け入れた時点なのだ。
「なぜを問うことすらばかばかしい!」
これこそ権力に取って最高の褒め言葉なのである。

ヨルゴス・ランティモスギリシアアテネ出身、信仰はおそらく当地固有のキリスト教であるギリシア正教だと思われるが、実のところ彼の信仰がどうあれ、本稿の読解にさしたる影響はない。なぜなら神話的境界とは概念装置であり、決してキリスト教の神そのものを指すわけではないからだ。そして、本作の舞台がまさに神話的なスケールの力により歪められた“後の”世界であることは明らかだろう。言い換えれば、キリスト教の神が持つ神話的境界としての機能を戯画的に増幅してみせたのが本作なのだ。

さあ、いよいよ解決編の始まりである。
理不尽な恐怖、苛烈過ぎて笑えないユーモア、世界を見下ろす目としてのカメラ。極めつけが、わがものとならないよそよそしい肉体。これらはすべて、世界の外側から人々を支配する不気味な力の存在を示唆している。このような崇高な強制力、明文化を回避する法の発布者をこそ、われわれは神と呼んできたのではないだろうか?
つまり、これまで概観してきた不可解な要素はすべて、無意識下に隠蔽された神話的境界へ見る者の注意を向けさせる巧妙な仕掛けだったのだ。結果として、本作は観客から未知の戦慄と官能を盗み出すことに成功している。さらに詳細に検討していこう。

既に見た通り、登場人物の肉体において性の役割はことごとく挫折させられる。一見するとだれもが他者との接触を恐れているように見えるが、実際には神話的境界に分断された自身のからだを持て余しているのだ。触れられることなくして触れることはできない。他者と関わりを持つということは、自分にすらよくわからないからだを開示する事態を指す。そこで生まれるのは羞恥であり、恐怖だ。
『聖なる鹿殺し』の世界における神は、登場人物から健康な快楽を取り上げた。からだはアイデンティティの核を失い、コントロールできない不気味な存在と化していく。それは自分の内側にありながら決して完全には手に入らない自分自身であるゆえに、よりいっそうの嫌悪の対象となるのだ。

こうして“持て余された体”を懸命に動かす人間たち(「オレを運んでいるのはたしかにオレだが、じゃあオレっていったいだれなんだ?」)からこぼれ落ちる不自然な挙動……
笑いは、一般に、ある事象についての前提と結果の齟齬を通じてもたらされる。普通AなのにBなんておかしい!という落差こそがユーモアの源泉なわけだが、そもそもの前提が疑われる場合、Aの一般性が充分に共有されていない場合、Bの違和が機能せず笑いに繋がりにくい。これは異文化間のコミュニケーションにおいてしばしば経験されることだろう。ところが、Bの違和感が際立っているために一度は笑えるが、その不可解が遡及的に前提Aを疑わせるような場合にはどうか?あえて図式的にいえば、これこそが『聖なる鹿殺し』における“笑えないユーモア”のメカニズムだろう。
序盤、夫婦のベッドシーンにおける儀式めいたふるまいに対しては、「普通セックスすんのにせんのかい!変態やないかい!」とツッコめるのだが、後に続く人物たちの不自然な言動や妻と麻酔科医の手コキシーンを見るにつけ、当たり前だった前提が揺らぎはじめるのだ。「普通セックスするやないかい!」の普通が、素朴な前提Aが、ひょっとするとこの世界では既に失われてしまっているのではないか……このような不安が笑いを引き攣らせのである。言うまでもなくこのルートは、分断された肉体の不条理というひとまずの回答を経て、神話的境界という大いなる映画の外側へと通じている。

なんとまあややこしく窮屈な世界!
だが、この寒々しい空間の中から奇妙な実在感を持って浮かび上がるのがミートスパゲッティである点をどう解釈すべきだろう?
恐るべき呪いが進行していくさなか、母親はある目的を秘めて少年を訪ねる。
「学校に行くので、少しだけなら」
朝食を食べながら応じる少年。ミートスパゲッティ。かちゃかちゃ、フォークを動かし、ぺちゃぺちゃ、音を立てる。興奮した様子でまくしたてる。人間味の乏しい世界にあってあまりに人間的/動物的な食事風景は嫌悪を掻き立てるに充分だが、スパゲッティのどす黒い赤と細切れにされた肉の破片は、後に来る陰惨な暴力の予告ともなっている。赤は血の色、肉の色。開巻大写しにされる心臓が示すとおり、本作の赤は危難を予兆させる黒味がかった赤だ。
激情をあらわにしないロボットのような登場人物たちが本心からの興奮を見せるのが、少年を拷問するシーンであることはあまりに悲しい。性交によってではない、暴力を通じた他者への侵入。皮肉なことに、これだけが唯一成就する肉体の交流である。

ボードレールは「快楽とは苦痛を薄めた形態である」と言った。この言葉は単なる詩的表現に留まらない、からだについての鋭い省察でもあろう。
触れる。撫でる。こする。つねる。引っ掻く。突き刺す。
人間のからだ。その先っぽに当たる人差し指。さらに先端、表層たる爪の、他者の肉体に関わる運動を並べてみた。後にいけばいくほど痛い。だが、バロメーターを苦痛から快楽に変更したみた場合どうか?後にいけばいくほどきもちよくなると考える者と、逆順に辿った方が官能が増すと考える者、あるいはまた、ひとつひとつに快楽の濃淡が異なる者と。思えば、キリスト教神学の起点となったサクリファイスは、なにより人間イエスの死、その肉体の苦痛をこそ主眼としていたのだ。
さらに、触れる、の前段に、見る、を置いてみた場合、事態はいっそう複雑になる。見ること、まなざすこと、目で触れること。その苦痛と快楽はいかばかりだろう?本作の登場人物たちにとっては、もしかするとこれこそが最大の苦痛かもしれないのだ。
肉体は見られるだけで損傷する。妻の職業が眼科医である事実は極めて示唆的だ。人間は見ることによって外部を内部に取り込む。五感のうち視覚は認識の七割を占めているとも言われる。しかし逆に、見られることによって、わたしという内部は溶け崩れ、外部へと流れ出してしまう。「他者は地獄」というサルトルの言葉は、視覚がますます優位を占めるようになった近代の不安を表す。内部と外部を分かつわたしという透明な境界は、そのまま肉体の、皮膚という物質的な仕切りに通じている。見られることなくして見ることはそれゆえエロティックな専有の感覚をもたらすが、触れることは触れられることなくしてありえない。自然、恐怖を伴うものとなるのだ。
本作の登場人物たちは他者との接触を極度に恐れつつも、見られることなく見ること、触れられることなく触れることを熱望しているように思える。それが不可能なゆえ、もがき苦しんでいるようにも。
呪いの四つの段階を思い出してみよう。「立てなくなり、食事を受けつけなくなり、最後に血の涙を流して、数時間後に死ぬ」ーー血涙のモチーフはおそらく聖母マリア像の伝説に由来している。悲劇の予兆として血の涙を流すマリア像は世界中に存在しており(そのほとんどがペテンとはいえ)、信者獲得の呼びものとなっているのだ。だが重要な点は、憎悪に満ちた呪いが復讐を目的としていること、つまり、四つの段階が呪われる人間にとっての苦痛を増大させる順に設定されているであろうことだ。だとすれば、この家族に取ってみれば、歩けなくなること=外部に参入できなくなること、食べられなくなること=肉体の死に近づくこと、より、血の涙を流すこと=視界を奪われ、見る主体としての権利を剥奪されることの方が、遥かに死に近い苦痛だということにはならないだろうか?
だからこそ現実に一人が死を迎えるクライマックスでは、家族全員が目隠しする状況が出現するのだ。神話的境界にあらかじめ肉体を去勢された彼らにとってみれば、滅びに向かうからだに危急の焦燥はなく、むしろ目の去勢、見る資格の剥奪こそが真実の死なのである。
直接的な性が描写されないのも当然だろう。彼らが求めるのは、触れられる嫌悪と見られる恐怖をすり抜け、独占的かつ一方的に他者の官能を奪い取る、いわば透明人間のセックスなのだから。そして、あらかじめ不可能なこの欲望を押し隠す無感動こそが、非人間的な世界の枠組みをいっそう強固なものにしてしまう。

ところが、彼らを苦悩させる秘密の欲望をいともたやすく叶えてしまうものがいるとしたらどうだろう?時間にも、空間にも、肉体にも縛られず、すべてに見られることなくすべてを見るもの。もうおわかりだろう、神だ。
「主はいつもわれらを見守っておられる……」
神とはいわば透明な眼球であり、その存在様態は映画におけるカメラの役割と類似している。本作はカメラのズームイン・ズームアウトの多用によって、神の目=見守るだけで手は貸さない無慈悲な視線を強調する。
もっとも印象的なのが、病院のシーン。呪いの効果によって息子は立てなくなり、車椅子から無様に転落する。付き添う母親は必死で助けを求めるが、救いはなかなか訪れない。残酷極まりない場面をカメラはただ淡々と映し出す。やがてゆっくりとズームアウトしていくにつれ、画面中央の母子の姿はどんどん小さくなっていき、遂には豆粒ほどの大きさにまでなってしまう。巨大な病院内部の建築、こちらの意などおかまいなしに動き続けるエレベーターとの対比もあいまって、このシーンがもたらす効果は強烈だ。情け容赦ないカメラの動きは、見られることなく見るものの優越と、虫けらのごとき人間の抵抗しがたき運命を表している。

以上、キリスト教、特にカトリックの神を通じて神話的境界という概念を抽出し『聖なる鹿殺し』の分析を試みてきた。ここまで来れば前半で提示した謎の答も明らかだろう。即ち、なんでこんなにこわいの!?なにがこんなにエロティックなの!?
本作が名状しがたい恐怖をもたらすのは、人物を不能のオブジェとして扱うことで分断された肉体の矛盾を描き出し、からだについての省察を迫るためである。性的要素が排除されているにも関わらず官能を帯びて見えるのは、フィルム自体が再接続の欲望をかき立てるためなのである。
結果として浮かび上がってくるのは、神話的境界の厳然たる支配力(少年の呪いは、この支配=より根源的な呪いが既に世界を覆っていた事実を掘り起こすきっかけに過ぎない)と“持て余された体”を生きる人間たちの苦悩である。
だが、彼らを笑い飛ばすことができようか?本作の登場人物たちのうそくさい挙動、犯してもいない罪の償いに戸惑う姿は、実際のところ、われわれの生とどれほど異なっているのだろう?
繰り返すが、神話的境界とは特定のなにかではない。それはなぜを問うことをやめた主体にかりそめの方向を与える指示器。苦痛と喜びを通し、苦痛の喜びをこそ教える微笑みの拷問者。そんな存在はあなたとは無縁だろうか?あなたのからだは本当にあなただけのものだろうか?

キリスト教は、肉体を、神という中心から遠ざけ、文化的周縁に追いやってしまった。人間のエロスは疎外されていった。アダムとイヴの物語における恥の観念の植えつけに始まり、からだは、からだとからだの接触は、次第によそよそしくなり、冷たくなり、臆病になり、ついには恐怖そのものと化していった。
産業革命、王権打倒、テクノロジーの発展に伴う急速な近代化、身分制度の廃止や民主主義下における貧富の差の解消等から、世界の中心は神から個人の理性へと座を譲っていったが、阻害の様相は変わらず、どころかますます深刻化している。
現代社会において、便利という言葉は他者と関係せずとも用を足せる、ということと同義である。相変わらずセックスはあり、快楽もあるが、しかし肉体は阻害され続け、コミュニケーションは表層で済む形式に純化されていきつつある。
事情は宗教心に乏しい日本においても同様だ。神はテクノロジーそのものであり……あるいはインターネットこそが?パソコンやスマホのディスプレイは、ネットと現実を、内部と外部を繋ぐ境界である。そしてそれを駆動するのは指先の皮膚、肉体の境界なのだ。表層と表層の、透明な間仕切りのくすぐり合い。だがそんなあえかな繋がりが官能のリアリティになっていることは言うまでもない。最も魅力的な異性は、今やディスプレイの向こうにいるのだ。

そんな世界における肉体、ナマミのリアリティはいったいどこにあるのだろう?
ここで登場してくるのが、スタンリー・キューブリックの遺作『アイズワイドシャット』である。この映画は『聖なる鹿殺し』と多くの共通点を持っている。
富裕だが倦怠期にある夫婦、人工的でつくりものめいた世界観(舞台はニューヨークなのだが、イギリスでロケがされたためにヨーロッパ車が走っていたりする)、去勢されることで匂い立つ官能。とどめには、トム・クルーズ演じる夫の職業は医師であり、妻を演じるのは本作と同じニコール・キッドマンなのだ!『聖なる鹿殺し』パンフレット中のニコールのインタヴューによれば、「(ランティモス)監督はスタンリー・キューブリックに似ていて、「どうしてこうなるんです?」と聞いても肩をすくめるだけ」との由。だがもっとも本質的な類似は、『アイズワイドシャット』がまた“持て余された体”におけるリアリティーを模索した作品だということだ。
金と地位、おまけに美人の妻を持ちながら満たされない空虚を抱えた夫は、キリスト教の異端まんまな乱交パーティーに迷いこみ、そこで出会った幻の女を探し求める。やがて書き割りのセットが倒されるようなあっけない真相が開示され(ここで爆発する夫の暴力の不慣れさも『聖なる鹿殺し』の拷問シーンに通じる。“慣れない暴力”と“笑えない笑い”は“持て余された体”が引き起こす反応のウラオモテと言えるだろう)、夫は泣きながら妻にすべてを告白する。
原作がフロイトに「わが魂のドッペルゲンガー」と言わしめたシュニッツラーの小説『夢奇譚』であることを思えば、この物語を性的空想の次元に囚われた魂が現実に回帰する、精神分析的なドラマの視覚化と捉えることもできよう。だとすれば、本作におけるトラウマは直接的にはセックスであり、本稿の読解に沿って言えば、清潔な近代という神話的境界に去勢された肉体との向き合い方、ということにでもなろうか。このように読んでいくと、一見上っ面なラストシーンは思わぬ深みを獲得する。
エロティックな通過儀礼によって幸福な夫婦の仮面を剥ぎ取られ、途方に暮れる夫。妻に問う。
「俺たちはこれからどうすればいい?」
答えて妻
「Fuck!」
ここでのファックは、セックスともファックオフ(だまれ!)とも捉えられるが(唇を舐めるエロティックな仕草からして前者だろうが)、重要なのは野蛮な言葉に隠された真意である。
ヤるしかない。なにがどうなるか、わかんないけど、とにかくヤってヤって、ヤりまくるしかない。シンプルに聞こえる提案には、100%自分のものにならない体を使い尽くすことで、わずかなりとも所有の実感を引き寄せんとするひたむきさがこめられているのではないか?冒頭のパーティーで華やかに着飾っていた彼女はもういない。化粧を落とし地味眼鏡をかけたニコールは、疲れきった様子で、それでも決然と神との戦いを宣言するのである。従って、これから行われようとしている”Fuck"は快楽本位のセックスではありえない。聖なる次元への上昇を意図せぬ肉体の毀損、いわば信仰なき鞭打ち苦行なのだ。

これがひとつの突破口?
とはいえ、『聖なる鹿殺し』の苛烈さに比べれば『アイズワイドシャット』にはまだまだオプシミスティックな雰囲気が漂っていたことも否めない。
見ることの官能を主眼とした映画を見ることによって感染する官能を閉じこめた稀有なフィルムとして、いまひとつ、塚本晋也監督の『六月の蛇』を紹介しよう。
またまた金持ちのくせしてセックスレスの夫婦。過剰に清潔な、コンクリート打ちっぱなしの部屋で暮らす。黒沢あすか演じる妻は謎の男からの脅迫を契機として、自らのうちに眠るエロティックな願望を開花させていく。神足裕司演じる夫は極度の潔癖症であり、排泄物を浄化する薬が手放せない。
ここでの見立ては明らかだろう。コンクリート建築こそはまさに近代の象徴物、人間のなまなましさの対極にある無機質で合理的な肉体である。このような巨大な肉体に囲繞されてじゃまっけなからだを生きる二人は、別様のやり方でリアリティを見出そうとする。排泄物はコントロールできぬ肉体の余剰、不気味な内部を表し、これを排除する試みによって夫はからだを飼い慣らす。反対に、妻は制御できぬ体をさらけ出すことによって締め出された快楽を奪い返さんとする。降りしきる雨の中、遂に二人が抱き合う結末は一見すると『アイズワイドシャット』同様楽観的なものだが、相違は視線の介在にある。妻は不気味な男に覗かれ撮られることによって、夫はそんな妻のあられもない姿を覗き見ることによって、それぞれ失調した性を回復してゆくのだ。
見られることなく見る者=神の模造としての窃視者になりすます夫はともかく、見られる肉体を演じることで生を塗り替える妻のやり方は可能性を感じさせるものではあろう。とはいえ、他者のまなざしなくして二人は開放され得ただろうか?どんな時にも必ず見守っていてくれる目、最も理想的な覗き魔とは、やはり神なのではないだろうか?この点において、妻もまた神話的境界のくびきから逃れ得たとは言えまい。
それにしても興味深いのは、“見られる者を見る者を見る”という映画体験そのものである。極端に暗い画面もあいまって、『六月の蛇』は複層的な視線の快楽を提供する。神とカメラの類縁性は既に指摘した通りだが、映画の観賞者たる間、われわれもまた人間を、風景を、感情を、心ゆくまで観察できる事実を忘れてはならない。対して、どれだけ見つめようと映画がこちらを見つめ返すことはありえないから、観賞者の快楽は極めて特権的である。
しかし、本当にそうなのだろうか?われわれは映画を、そこに生きる他者を、目の穴から吸い込み、肉体を毀損する暴力的な装置に過ぎないのだろうか?映画体験とはそのような種類のものなのだろうか?
違う。映画も人間を見つめ返すのだ。信仰を通じて人間が神を見つめ返すのと同じように。
優れた作品は見る者を見つめ返す。そして問いかける。
どのようにして?感染によって。低いレベルでいえば、感情移入。高いレベルでいえば、なにかに批判的検討を加えつつ批判すべきポイントに欲情してしまうわれわれの官能のリアリティを映し出すことによって。
塚本晋也を近代批判の作家と見なすことはたやすい。だが正確には、塚本は近代フェティシズムの作家なのである。『六月の蛇』で示された主題の変奏たる『ヴィタール』では、無機質なコンクリート廃墟とグロテスクな人体解剖の描写がぶつかり合う。さらにデビュー作『鉄男』において、巨大な鋼鉄のドリルと化す男根!官能の矛盾した性質を説明するのにこれ程うってつけの素材はない。なぜなら、このシーンは真反対な二つの要素を同時に表象しているからだ。第一に、近代というウィルスに侵蝕されていく肉体の恐怖。第二に、その酷たらしさになぜか恍惚を感じてしまう(おっ勃ってしまう!)奇妙な官能の領域。塚本は一方に偏る愚を避けつつ、これら相反する要素の融和・激突を繰り返し表現する。それゆえ近代フェティシストなのだ。
最も忌み嫌うものこそが、実は最も望まれている可能性。これは神話的境界に分断された世界における官能の根本的にやっかいな性質である。そう、『六月の蛇』の妻と夫は、近代社会に苛立ちつつも欲情してしまっている。おそらくは映画を覗き見る、あなたも。
異様なエロスを分泌しているものは、実は人間のからだではなく、褪せたブルーで撮影される近代建築の裸体なのである。妻が勤務する相談室の均一に並んだパーテーション、雨に濡れたコンクリート道路、二人の密かな欲望を包む住居。そのすべてが実になまめかしく、欲情をそそるのだ。反対にまた、黒沢あすかの肢体がエロティックなのは肉体の開示によるのではなく、新たに装われた人工性によるのである。雨を水を媒介とし、近代と溶け合ってゆくからだ……『六月の蛇』が真に脅威的なのはこうした両義的な表象のきらめきであり、同時にこれは『聖なる鹿殺し』に隠されたエロティシズムのさらなる深層、官能のリアリティにおける新たな次元をも示唆している。

まどい、もがき、苦しみながら、『聖なる鹿殺し』の登場人物たちが求めるもの。求めれば求めるほど、果てしなく逃れ去っていってしまうもの。
官能のリアリティ。
それはもはや、内ではなく外にあるのではないか?『六月の蛇』を経由することで、本作はこのような戦慄すべき問いをわれわれに突きつける。
神話的境界に矯正されたこの世界では、人間の性が希薄な代わり、さまざまな無機物が異様なエロスをたたえて見る者を誘惑する。ズームアウトしながら捉えられるビル群、繰り返し大写しになる病院。息子が立てなくなってなお、整然と運動を続けるエスカレーター。奇妙なことに、これらは生気の薄い人間たちよりよっぽどリアルなものに感じられる。堂々として、疑わず、セクシャルだ。あるいはこう言い換えることは可能だろうか?鉄骨で作られた清潔な病院、機能的なオフィス建築、我関せず決まった運動を繰り返すエスカレーター。これこそが彼らの皮膚なのだと。登場人物たちは、わがものにならない肉体を、そのリアリティを、コンクリートの実在に譲り渡してしまったのだと。
登場人物?いいかげん、よそよそしい世界にならうのはやめよう。哀しき隣人、親しき友として、今こそ彼らの名前を呼ぼう。父=スティーブン、母=アナ、娘=キム、息子=ボブ。そして、少年=マーティン。
表面を撫でる。ひんやりしている。するするしている。ざらざらしている。触れている。たしかに触っている。しかし中へ、奥深くにまで手を差し入れることはできない。かたさに阻まれ、侵入できない、そのからだ。はがゆく、もどかしく、同時に深く安堵してしまうたしかさ。なぜなら、侵入できないことは侵入されないあきらめの安心をもたらすからだ。もし。もしも。肉体の奥深くにまで侵入した先、侵入された先に待っているもの。聖なる鹿殺しが、ヨルゴス・ランティモスが掴み取ろうとしているもの。
境界の裏側から伸びる手に、しらない恍惚を盗まれて。