ヨルゴス・ランティモスと神話的リアリティの地平~作家論に代えて~

先の記事 (しらない恍惚を盗む人〜聖なる鹿殺し、ヨルゴス・ランティモス、神話的境界〜|脱輪 @waganugeru|note(ノート)https://note.mu/waganugeru/n/nb169ebf9568e) では、“神話的境界”というキーワードを軸に『聖なる鹿殺し』の分析を試みた。おさらいしておこう。
神話的境界とは、明文化されない不可侵の法である。その絶対のゆえに、論理を超越した聖性・神話性を帯びるに至る。
神話的境界は見えない仕切りである。ある特定の世界を、そこで営まれる生活ごと分断する。
またそれは、捏造された不自由な希望である。仕切りを飛び越える自由は飛び越えられない不自由から切り離されない。相反する動機づけを同時に強制することにより、人々をがんじがらめの状態に置き、支配をたやすくするのだ。境界の内側で生きる者の身体は次第に“持て余されたからだ”へと変容していき、償えない罪への羞恥が植えつけられる。こうした罪悪感の表現こそ、取り繕われた不自然な挙動、自己防衛としての無感動である。一方で、自然かつ完全な肉体(これ自体幻想だ)を欲望する心、失われた合一を求める無意識の運動が特殊なエロスを形作っていく。

前稿ではさらに、キリスト教におけるエロスとパラドクスの歴史から取り出したこのワードを、近代化に伴う合理的な(つまりは病的な)清潔志向に照らし合わせ、ラディカルなネット社会を生きるわれわれ自身の問題にまで引きつけてみせた。
『聖なる鹿殺し』というたった一本のフィルムを光源に無数の反射を企む試みがどの程度成功したかはさておき、そもそも、“神話的境界”なる概念の新規性は問われてしかるべきだろう。過去に様々な人間が様々な言葉で表現してきた概念の言い換えに過ぎない、という指摘もあるに違いない。
なるほどたしかに、それは例えばある者が聖なるもの/不気味なものと呼び、ある者が人間阻害と呼び、またある者が崇高(sublime)と呼んだ概念に過ぎないのかもしれない。実際、想定されている領域はこれらすべてを含み持つのだから、定義が不十分だとの謗りは免れないだろう。
だが批判を承知で敢えて新語を使うのにはわけがある。前稿が精神分析的/探偵小説的な方法論をもって展開されたこととも呼応するのだが、われわれが明らかにしたい領域は、どうやら逆説的にしか定義し得ないようなのだ。なぜなら、境界が内在化されている世界においては、あらゆる事件は“起きてしまった後”として生起するからだ。無力な探偵、哀れな精神科医、ぼんくらな批評家に許されるのは、微かな違和を頼りに事件の痕跡を掻き集め、不可視の犯人=強大ななにかを想像することのみなのである。
だとすれば、われわれが批評を通じて試みたのと同じように、ある種の作家もまた、作品のなかで無謀な探偵コスプレに挑んでいると言えるのではないか?
これが本稿の提出する見立てであり、神話的境界というキーワードは、彼らの探査行ーーいったいなにとたたかってるの?ーーという謎を解くための鍵として機能し、その都度遡及的に輪郭を形作っていくものと理解されたい。

具体的な映画監督の名を挙げてみよう。
ルイス・ブニュエルイングマール・ベルイマンミヒャエル・ハネケラース・フォン・トリアー、そしてスタンリー・キューブリック塚本晋也
SF的想像力と似て非なる神話的なリアリティの次元において、しばしば肉体と官能を舞台に、極限の緊張と滑稽の争議が執り行われる映画たち。
作風の相違にも関わらず、彼らの映画から受ける印象はどこか奇妙に似通ってはいる。なにがそう感じさせるのか?見やすいのは、それぞれが神(ことにキリスト教の神)を主たるテーマに据えている点だろう。言い換えれば、彼らは皆、神話的境界に抑圧された人間の悲喜劇を取り扱う作家だということになる。
各論は別稿に譲るとして、それぞれの作風を概観してみよう。
神の不在を極限の緊張の中で問うベルイマン、古典的ともいえる手法で神なき世界の残酷と対峙するハネケ、毎回様々に役者をいじめ抜き、肉体の冒涜を通じて神に挑むトリアー、シュルレアリスティックな罠を仕掛け神的権威を嘲弄するブニュエル

パラドクスとエロスという観点からして、とりわけ興味深いのはブニュエルである。一見涜神的な作風を持つ彼が厳格なイエズス会信者であった事実(その潔癖ぶりは有名で、家族に裸を見られたくない彼は浴室に鍵まで取り付けた!)を思い合わせる時、神話的境界というキーワードは複雑な陰影を獲得するに違いない。
神、近代文明、罪悪と羞恥、実存的不安、なんとな~くの生きづらさ……
この世界を仕切る無色透明な境界装置。それらが可能にする相反するものの恐るべき交わり。論理を超えた力に、抗いながらも欲情してしまう救いがたき人間の部分。このような領域を“神話的リアリティの地平“と名付けることにより、難物で知られる監督たちの作品を比較検討する機会が開かれるはずだ。

その再前衛に、今、ヨルゴス・ランティモスは立っている。
彼は現在までに五本の長編映画を撮っているが、うち日本公開された三作『籠の中の乙女』『ロブスター』『聖なる鹿殺し』はいずれも神話的境界に囚われた人間の実像を抉り出し、見る者に未体験の恍惚をもたらす映画ばかりである。

境界の存在が最も直接的な形で示されるのが『籠の中の乙女』(09)だ。
世俗から隔絶された住居で徹底した潔癖教育を受ける家族。かりそめのユートピアは、境界の外からもたらされる性的な動機付けによって崩れ去る。長女は荷物用のダンボールに身を潜め脱出を図るが、彼女が境界の外に飛び出せたのかは明らかにされない。箱の蓋が閉じられたまま、映画は終わる。
『ロブスター』(15)の舞台となるのは、45日以内に配偶者を見つけられなかった独身者は動物に変えられてしまうという、残酷ですっとぼけた近未来だ。ここにおいて境界は仕切られた居住空間を越え、世界全域にまで拡大される。命からがら更生施設のホテルを脱出した主人公は、恋人とともに“外”を目指す。疲れ果てた二人はカフェに立ち寄るが、ここで迫られる選択は生死をかけたシリアスなものである。鏡の前、アイスピックを手に、じっと自らと対峙する主人公。ギリシア神話オイディプスよろしく己の目を突き刺すのか、踵を返して逃げ出すのか、やはり宙吊りのまま幕となる。
『聖なる鹿殺し』(17)では、ようやくわれわれの見知った日常世界が舞台となる。だが安心してはいけない。少年の呪いという超自然的要素が導入されることにより、境界はいよいよ身に迫ったものとして立ち現れ、未曾有の恐怖を喚起するに至るからだ。境界の圧力は、過去二作のように寓話的に可視化されることこそないものの、生活の隅々にまで浸透しているぶん、いっそう深刻な病状をもたらす。ここまで保留されてきた悪魔の二択ーー死を賭して自由を得るか、安堵する不自由に留まるかーーはひとまずの回答を得るが、ダイナーで少年と主人公一家が出会うラストシーンは相変わらず意味深かつ曖昧である。

極限から広範、そして遍在へ。直接から間接、そして不可視の日常へ。神話的境界を描き続ける作家・ランティモスが次第にその主題を深めていることがわかるだろう。フィルムを構成する重要素を前稿から拾い上げ、改めて全作を比較してみよう。

・持て余されたからだ/快楽を阻害される性
籠の中の乙女』……本作の原題はギリシア語の犬にあたる。“外”にいるはずの敵から身を守るため、ワンワンバウバウ、よつんばいになって少年は吠える。ここには隔離された一家を檻に閉じこめられた犬に見立てるシニカルな視点が含まれているに違いない。いずれにせよ、人間が大真面目に犬になりきろうとする行為は、特殊な環境下で変容させられたからだのアクションと捉えられよう。少年はまた、ある女性とセックスを行うが、表情から快楽はいっさい読み取れず(なんというか、ランティモス映画におけるセックスシーンは「実に不味そう」だ。決まって個性的なブスが役者に選ばれているのも計算ずくのいじわるに違いない)、この他に現れる性的要素もまっとうなコミュニケーションを形成し得ない。
それにしても、誕生日パーティーで披露される娘のダンス、あの動きのなんと珍妙なことだろう!『ナポレオン・ダイナマイト』のラストダンスとは似て非なる、情熱的かつ悲愴な痙攣!ランティモスのエッセンスが凝縮された名シーンだ。
『ロブスター』……そもそもここでの性、セックスは強制されたものである。期日中にどうにかパートナーを獲得したい主人公は、不感症の女性に「自分も不感症」だと嘘をついて接近する。無表情を保ったまま二人が行うセックスは、愛と快楽を二重に裏切るニセモノにほかならない。パートナーを獲得できない、性を享楽できない不全への懲罰が動物に変身すること=肉体の変異である点にも留意したい。変身(メタモルフォシス)は、ギリシア神話ナルキッソスのエピソードから続く、戦慄と官能に関わる一大テーマである。
『聖なる鹿殺し』……実の夫婦でさえセックスに到達できない、あたかも集団インポテンツに陥ったかのような世界。「脇毛を見せて」とせがむ少年に見せる父親の困惑など、肉体の交流はよそよそしさを湛えて描かれる。

・不慣れな暴力/笑えない笑い
籠の中の乙女』……家族を外部へ誘惑する女性に、制裁を下す父親。自ら顔面を殴打し、流血する娘。唐突に噴出する暴力は、笑えない衝撃を通して笑いを誘う。
『ロブスター』……嘘がバレ、口論の末不感症の女性を殴り倒す主人公。昏倒した女性を重そうにずるずる引きずっていくシーンの、情けなく凶暴なユーモア!
『聖なる鹿殺し』……少年を監禁してなお優位に立てない苛立ちから暴力は生まれるが、そもそも父親の肉体からは、暴力の主体を引き受けるリアリティが抜け落ちている。このため、暴力は肉体の表現(プロボクサーの流れるような動きを想起せよ!)として成立せず、演技めいた無様なものに堕してしまう。

・視覚の去勢
籠の中の乙女』……外界は遮断されており、敷地を越えることはおろか、高い塀に遮られ外を覗き見ることも叶わない。彼らの世界は見える範囲、つまり一個の住宅のみであり、目は選択的に閉ざされている。
『ロブスター』……件のラストシーン。オイディプスごっこによって直接、かつ神話的に目潰しの恐怖が表現される。境界の内側たるホテルと外側の自由な世界(そんなものがあるのかどうかすら微妙だが)の狭間に位置するカフェが舞台になるのも暗示的だ。視覚の去勢は、ほとんど死に値する恐怖と不可能性、境界の外側へ脱出するための代償となっている。
『聖なる鹿殺し』……目隠しされた家族の中心に立ち、同じく目隠しして銃を構える父親。実際的な死の恐怖が視覚の去勢と連動していることがわかるだろう。ここで全員の目は、開かれたまま視界を失っている。当たり前のように日常に溶けこんだ境界が、開いた目からはけっして見えないように。

・謎めいた動物趣味
籠の中の乙女』……犬、飼い慣らされ不自由を強制されるものの象徴として。
『ロブスター』……タイトルは主人公が変身を希望する動物に由来する。即ち、ロブスター。また、最も一般的な希望は犬であることが知らされる。配偶者を獲得できなかった主人公の兄が変身したのも犬だという。
『聖なる鹿殺し』……鹿、ただし登場せず。ギリシア神話中の“アウリスのイピゲネイア”に因み、タイトルが象徴するのは神に供されるいけにえである。

いかがだろう?一見エイリアンのように正体不明なランティモスの本質が、少しずつ明らかになってきたのではないだろうか?彼の作品は鬼面人を驚かす類のものではない。手を替え品を替え、それぞれが反射し合いながら、常に一貫した主題を語り続けているのだ。神話的リアリティの次元。
世界は、空間は、肉体は、映画が始まる以前から既に分断/去勢されている。わがものにならない肉体は持て余されたからだへと変質し(これはいわば、体からネームタグを剥ぎ取られ、代わりにそれを縫い付けたカバンを背負わされるような理不尽な経験である。どちらもぎりぎりのところで自分のものにはなり得ない)、悲哀に満ちたメッセージを伝えはじめる。不慣れな暴力は快楽を阻害された性と背中合わせであり、主体を引き受けられない身体の差し迫った表現なのだが、その必死さが滑稽に転じ、戦慄とともに笑えない笑いを引き起こす。
バラバラに思える諸要素は、このように緊密な連携を保ちながら、神話的境界が発する不気味な力を強烈に訴えかけているのである。
さらに言えば、ここで確認した特徴は、神話的リアリティの作家として名を上げた他の監督たちの作品にもある程度当てはまるように思える。これについても別の機会に考えてみたい。

以上、映画史のなかに“神話的リアリティの作家”という系譜を仮構し、その文脈のなかにランティモスを位置づけることによって分析を試みてきた。
改めて、ヨルゴス・ランティモスは、神話的境界に囚われた人間の姿を描く最新モードの作家である。だが早とちりしてはいけない。突飛な道具立て=神話的リアリティを用いて彼が追求するリアルは、神話でもファンタジーでもない、われわれの日常から少しもかけ離れたものではないのだ。むしろ彼の映画は、無数のネットワークに自身を明け渡すことによって享楽し、その実なにものをも所有できないままでいる幽霊的身体=持て余されたからだにのみ感得され得るリアリティを有している。つまり、映画に刻印された神話的リアリティを通じて、われわれは「今生きている世界におけるリアリティとはなにか?」という“現実的な”問いにアクセスできるわけだ。
ランティモスは握手する。はねのける。半分消えかかったわれわれの右腕と。それがたとえ、あるかなきかの温度であろうと、福音はマゾヒスティックに訪れる。次回作『女王陛下のお気に入り』の公開を心待ちにしよう。