たかが真実 〜『アメリカン・アニマルズ』の集合と離散〜

映画『アメリカン・アニマルズ』は2004年にケンタッキー州で起こった実際の盗難事件を題材にしている。博物学の精華として知られるオーデュボンの画集「アメリカの鳥類」時価1200万ドルを盗み出そうとした犯人は、なんと将来を期待される四人の大学生たちだった。いったい彼らはなぜそんな無謀な賭けに出なければならなかったのか。役者によって一部始終が再演されつつ、犯行に手を染めた本人たちが登場し証言する。この特殊な構成の前者を劇パート、後者をドキュメンタリーパートと捉え、スタイリッシュな虚実の入り交じりを堪能するだけでは見落とされてしまうもの。逆説的に言って、これこそが本作の肝ではないだろうか?
本人たちが出演するパートをドキュメンタリーとして見る限り、ある種の不自然さが目に付く。元犯罪者とは信じにくい無邪気で夢見がちな態度、ほとんど英雄的にすら思える語り口。なによりも、それまで雄弁だった四人が犯行の実際を語るに至って口を閉ざすアクション(四人が四人とも、まったく同じタイミングで沈黙する)など、どうしても嘘くさく感じられる点が多い。おそらく観客は、このいかにもドキュメンタリー然とした悲痛な沈黙のうちに、作り手によるなんらかの作為を嗅ぎ取るに違いない。しかしこのことをもって本作の看板文句“This is a true story”の瑕疵とするのは筋違いだろう。あくまでも全編が劇映画なのだ、と考えるのがふさわしい。これは、他者が演じる虚構と本人が語る現実がひとつの真実を構成する映画ではなく、他者と本人がともに本人役を演じることによって複数の真実を浮上させる映画なのである。
根拠はいくつか存在する。最も決定的なのは、犯行グループのリーダー的存在であるウォーレン・リプカが、ニューヨークで故売人(盗品など特殊な事情を持つ品を買い受ける業者)に接触するシーンだ。この故売人の容姿を巡って複数の証言が対立することは興味深い。リプカはその人物を立派な身なりをした年配の紳士だったと語り、リプカの親友で犯行に加担するスペンサー・ラインハードは、青か紫のストールを巻いた中年男性だったと語るのだ。だがここまではよくある記憶の食い違いに過ぎない。驚くべきはこの後。なんと映画は、相反する証言に基づく二つの現実を連続して映し出してしまうのだ!結果としてリプカ役を演じるエヴァン・ピーターズは、異なる風貌の同じ故売人に二度話しかけることになる。
ユーモラスだが不気味なこのシークエンスは、本作のテーマを端的に示しているように思われる。それは、現実とは不確定なものであるというテーマだ。一人一人の人間が異なる主体である限り、それぞれの目から見た現実は違った形でさまざまに存在し、それでいてそのすべてが“true”であり得る。だが/だからこそ“true story”=“真実の物語”なるものは、複数の主観と偏見の妥協点以上のものにはなり得ないのだ。
本人パートに登場するセリフ(証言というより、やはり)のいくつかがこうした見方を補強している。意見の齟齬に差しかかってリプカ「スペンサーがそう言うならきっとそうなんだろう」。全体を総括してスペンサー「この事件を思い返す時、どちらの物語として考えるべきなんだろう?僕か、ウォーレンか。思い出すには、どちらか一方の視点に立った方がやりやすいんだ」。
従って、ともすれば物議を醸しかねない冒頭のキャプション“This is not based on a true story, this is a true story”は、「これは真実に基づく物語ではない、真実そのものの物語である」という勝ち誇った宣言と取るより、「これは事実に基づく物語ではない、たかが真実の物語である」という皮肉な挑発として受け取るべきだろう。
しかし、ドキュメンタリー映画の定型となっている口上を茶化したこの文句は、リアルの決定不可能性に対するフィクションの敗北宣言ではない。なぜなら、一本の映画のなかに組み込まれることによって、現実(と思われるもの)も虚構(と思われるもの)も、同じレヴェルの物語として再編成されるからだ。実際、『アメリカン・アニマルズ』を見たわれわれが現実と虚構、異なる二つの映画を観賞したなどと感じることはありえない。一本の映画として見る限り、スクリーンの画面越しに楽しむ限り、あらゆる現実はひとつの虚構になるのだ。決定不可能なリアルはなにかしら強固なリアルに出会って確定されるわけではない。そんな事態はどこまでいっても起こり得ない。むしろ反対に、唯一フィクションだけがリアルを確定し得るのだ。揺らぎ漂うリアルを、少なくとも上映時間中に限っては決定してしまう機能こそ、良くも悪くも映画というフィクションの特性なのである。
どういうことか?
一般に、ある特定の事実は各々に都合のいい形で記憶・インプットされ、それが物語られる・アウトプットされる際には更なる改変が加えられる。物語が身体もしくは頭を通して生きられた過去を語り“直す”構造を持つ以上、ひとつの事実(fact)を複数の真実(true)が歪めてしまう暴力性から逃れられない。このように考えられていたからこそ、20世紀初頭の映画メディアの発明は大いに歓迎されたのだ。カメラとはいかなる主観にも与しない公正中立な目であり、それが映し出すものは複数の真実ではなくひとつの事実。おまけに記録と再生の両方の役割を担う特性からして、インプットとアウトプットの間に生じるラグを最小限に抑えることができる。これこそ主観の暴力性を回避する画期的な発明ではないか!
このような期待がどれほど楽天的なものだったかは今や明らかだろう。カメラの目がどれほど正確でも、それを操るのは人間であるという単純な事実が見落とされていた。もっと根本的な問題は、もし仮に正確に記録された映像が適切に上映されたとしても(しかしこの正確さと適切さを判断するのは誰なのだろう?)、それを観賞するのは人間の不正確極まりない目であるということだ。結局のところ、いかな全能の機械といえども、人間に“向けて”作られる限り、けっして全能のままではいられないわけだ。
いくつもの悲劇を経験し、夢見がちな期待が冷めた頃、“人間が他者の現実をそのまま経験することは可能か?”という原初の問いは差し戻されるに至った。それはやはり不可能だ、というのが無力感とともに得られたひとまずの結論だったろう。しかし、本当は問い自体が間違っていたのだ。なぜならリアルはだれにも経験できないから。他者はおろか、当人にとってさえ。ここまで見てきたように、現実はひとつではなく、常に複数存在する。青いストールを巻いた怪しげな男と風采の上がった立派な紳士はいつも一緒に存在しているのだ。記憶が照らし合わされようと、カメラによって映し出されようと、リアルはどこまでいっても確定され得ない。繰り返すが、これを確定できるのは唯一フィクションだけなのだ。いったい、常に複数存在してしまう浮気な現実にどれほどの現実味を感じられよう!
だから、あらゆる問いの前に位置する仮定はこうなる。
“現実は確定できない。それゆえ現実を経験することはだれにとっても不可能である。”
とはいえ絶望するのはまだ早い。この命題をまるごとひっくり返してしまう力が、映画には、フィクションには備わっているという逆説を、『アメリカン・アニマルズ』は教えてくれるのだから。
即ち、
“虚構だけが現実を確定する。それゆえ虚構を経験することはだれにとっても可能である。”
そして、だれにも経験可能なフィクションはだれにも経験不可能なリアルより、時によっぽどリアルなものに感じられる。少なくとも、映画の上映時間中、そのわずかな至福の最中には。
このように考えた場合、本作のクレジットロールは感動的ですらある。そこでは劇パートと本人パートに出演した“役者”が同列に扱われているのだ。
ウォーレン・リプカ エヴァン・ピーターズ
スペンサー・ラインハード バリー・コーガン
そして、
リアル・ウォーレン・リプカ ウォーレン・リプカ
リアル・スペンサー・ラインハード スペンサー・ラインハード 
おわかりだろう。例えば後者を、
現実のウォーレン・リプカ ウォーレン・リプカ本人
現実のスペンサー・ラインハード スペンサー・ラインハード本人
などと訳してしまってはだいなしなのだ。望むべくはこう。
リアルなウォーレン・リプカ役 ウォーレン・リプカ
リアルなスペンサー・ラインハード役 スペンサー・ラインハード


そもそも、将来有望な若者であったはずの四人が、どう考えてもうまくいきっこない犯罪に手を染めたのはなぜか?それは平凡な日常を脱し、なにか特別なことを求めたためだった。うまくいきっこない、フィクショナルな計画であればあるほど、リアルから遠ざかれる気がしたのだろう。その意味で本作のコピー“犯罪史上、最高に阿呆な奴ら”は、単に的外れであるだけでなく、リアルのうちにフィクションを招き入れる=自己を物語化する身振りに宿る暴力性を甘く見ている点において、危険ですらある。例えば服役した刑務所内で彼らに訪れた異様な感慨は、こうした暴力性に立脚してしか理解できないのだから。公式パンフレット中の監督の発言によれば、刑務所に入った四人が味わったものは、心の平安であったという。これでようやく周囲の期待にこたえずとも済む。そう思うと、生まれて初めての解放感に包まれた、と。思わずゾッとさせられる発言だ。浅はかな夢を打ち砕く刑務所という現実の場でさえ、彼らにかかればある種のフィクションを孕んでしまうというのだから。きっと彼らは平凡な日常からわが身を遠ざけてくれるあたたかい場所として、刑務所を経験したのだろう。このフィクショナルな内部、物理的な閉鎖施設としてではないイマジナリーな保護空間としての刑務所に、われわれが足を踏み入れることができるとすれば、それは本作を見る経験を通してであろう。なんとなれば、かつて挫折したフィクションとしての犯罪が、今や数年の時を経て完全なフィクションのなかに呑み込まれようとしているのだから!リアルはフィクションにおいて遡及的に決定される。語ることによって、演じることによって、不確かだが光り輝いていたいくつもの特別な未来は、ようやくひとつの平凡な過去として確定されたのだ。
かくして『アメリカン・アニマルズ』を通して、特殊な経験を同じくする四人だけに共有されていたファンタジックな空間は、万人が住まうことのできる映画空間と重なり合う。それでいて、物語ることの暴力は見る過程のなかで繰り返し復活するのだ。映画が終了したのち、フィクションによって決定されたリアルは、再び決定不可能なものとして飛び去ってしまう。われわれがこの映画を見るたび、四人は何度でも集合しては離散し、ウォーレンは何度でもアムステルダムに行き(行かずに)帰ってくるのだ。このことを忘れてはならないだろう。


テーマ性から離れた事柄について、二、三。
音楽の趣味が異常にいい。ジョニー・サンダース(パンフレットにはジョニー・サンダーと表記されていたが、最近はこう呼ぶのだろうか?)、アニマルズ、ドアーズあたりはまあわかるにしても、CANが流れるに至っては歓喜せざるを得ない。しかーし!予告編で使用されているAlt-jの「In Cold Blood」リミックスが1秒たりとも流れなかったぞ!いったいどういうこと?聴き逃し?少なくとも僕の現実では流れなかったんだ。君の現実はどう?
演出がお上品過ぎる点をどう見るのか問題。参照されているのは『レザボア・ドッグス』『オーシャンズ11』『snatch』『ソード・フィッシュ』といったクライム・ムーヴィーばかり。この手の映画の醍醐味は、困難な任務をいかに遂行するかという頭脳ゲーム的な要素を除けば、お宝をゲットした瞬間のウヒャウヒャ感とヘマして警察に追われるシーンのヤバヤバ感、こうしたド派手な落差にこそあると言っていいだろう。わかりやすく天国と地獄を描くことが大切なのだ。ところが本作では、この天国と地獄が同じさりげなさのなかに留められている。その手際は見事なもので、青春映画として見ればかなりイイのだが、喧伝されているような内容を期待すると肩すかしを食うのではないだろうか?個人的にはもう少々、趣味が悪くてもよかったような。
バリー・コーガンはやっぱりすごい役者だ。出てくるだけで空気がピリピリ締まるのは『聖なる鹿殺し』の印象が強いせいばかりではあるまい。彼が演じたスペンサーとスペンサーが演じたスペンサーはともに芸術への憧れが強かったという。華麗な色彩で原寸大の鳥たちが描かれた特大本「アメリカの鳥類」は、そんな彼らを無意識に誘惑したに違いないと思う。
現在の四人に交流があるのか、気になる。根っからの芸術家タイプはスペンサー一人きりであろうに、事件後、四人のうち三人までが芸術表現に目覚めている事実は興味深い。絵画、映画、小説と、それぞれ異なる手段をもって物語る営為を継続しているようなのだ。ここからはなにか、物語る動物としての人間の業を感じずにはいられない。え?あとの一人はって?彼は14歳の若さで社長に就任、既に人生の物語化を完了させてるってオチ。
衣装協力にアムステルダム発新進気鋭のストリートブランド・New AMSの名があったように思う。フェルメールの絵画を分割してグラフィック化したり、おもしろいんだここの服。