天使化する世界に取り残されて ~僕とアーバンギャルド~

今さらアーバンギャルドについて語ることなどあろうか。
語ることがたしかにあった世界をうっかり乗り過ごしてしまった今の僕に。だれもがかつてのアーバンギャルドとの出会い、その爆発の長い余波について語っているようにしか見えない。そうすることで初恋の甘さをせいぜい引き延ばそうとしているようにしか。
氷が溶け、いつか苦くなるアイスコーヒーはmixiに浮かぶ。僕は大学一年生で、オーフレンド(すれ違うなり、おう、と声をかけ、軽口を飛ばし合う大学生活における最も一般的な友)から強引な勧誘を受けた不気味への反抗として、毎日欠かさず日記をつけることにした。
当時、mixiは熱病であった。それは不安定な釣果に過大な危険を要求される出会い系から幾星霜、史上初めてカジュアルにドレスアップされた釣り堀の出現だったのだ。他にヤることもない大学生、野生の釣り人は連日その話ばかりしていた。
そんな話はしたくない。したくないのに、いてしまって、癪なので、堀のなかに生垣を作ろう。防衛のための言葉、攻撃としての日記だった。やり出すと凝り出す。生まれ持っての悪癖で(もちろん言葉はウィルスだ。このことは松永天馬の作詞法を理解する肝となろう)さまざまなスタイルを試みるうち、マイミクは増え、微音なファンが発生するに至った。(その結果僕の身に残ったのは女性嫌悪というささやかな宝石)
初期のmixiには足跡というシステムがあった。ちょっくら覗くだけで、泥ペタリ、その足跡を辿れば訪問者のページへひとっ飛び。松永天馬、だったか、アーバンギャルド・松永天馬だったか、ともかく珍妙なミクシイネームの足跡がついた日は覚えている。即座に泥ハネっ返し、かのページを訪れた興奮。おそらくはボーカリスト交替を受け『セーラー服を脱がないで』のPVが公開された頃であったように思う。そのPV(いったいいつからMVと呼びならわすようになったのだろう?プロモーション・ヴィデオをミュージック・ヴィデオと言い換える欺瞞、時遷に沿った変質は、プロパガンダ・ヴィデオなるアイロニーがもはや成立しない、という一事をもってしても悲しいまでに批評的である)を見て、ハマった。ズッポリ、まっさかさまに、僕はアーバンギャルドに堕ちたのだった。
『セーラー服を脱がないで』のPVを見た。繰り返し見た。風呂場で歌った。関西初上陸のライブに行った。どきどきしながら開場を待っていると、あ、すいませんと言いながらスーツ姿のきのこが出てきて入口のポールをどかした。客は10人ほど。ほとんどが身内と見受けられるなか、ライブは圧倒的で、天馬さんの目は人殺しの目だった。後にも先にもあれほどの恐怖を感じたことはない。物販で『修正主義者』のCDを買うとFREEと書かれたブロマイドがあり、何枚でもいいですよーときのこが言うので全部つかみ取る。家に着いて、見返すと、アーバンギャルド・物販と書かれたプラカードまで入っていた。甘美な窃盗。
『少女は二度死ぬ』は、通販で買ったのだったか、不思議になつかしい筆跡が住所をなぞっていた。全曲聴き、mixi日記に全曲レヴューを書いた。拙い文章だったがメンバーが褒めてくれ、特に天馬さんは「われわれがもらった評のなかで一番いいもの」とまで言ってくれた。これをきっかけに始まった交流とも呼べぬ接触について少々。
『少女は二度死ぬ』全国発売を受けアンダーグラウンドな某雑誌への寄稿を依頼され、書いた。もちろん当時はただの大学生、今はかろうじてただの人。見返りにパスをもらい、何度かライブに行った。二人並んで対バンを見る光栄にも浴したが、どの演者に接してもぴくりとも動かずくすりとも笑わぬ目が忘れられない。普段は屈託なく穏やかな印象だったが、やはりこちらの、人殺しの目で世界を観察する天馬さんこそ真実だろうと今でも思っている。今度ツイッターで対談するので司会を、と言われ、丁々発止のやり取りに翻弄されつつ任務に務めた。夏の暑い盛りであったか、僕は姉の家で留守番をしていて、熱が38度あった。死ぬかと思った。ベランダで姉が内緒で飼っていたうさぎが死んだ。対談の数時間前、ふらふらしながらペットの葬儀屋を呼ぶ。このたびは、ご愁傷様です。うさぎのフンみたいなほくろを鼻にくっつけた男は、しきりに汗をぬぐいながら、では、と言ってぽきりと足を折り、いましがたショートケーキが入っていたような箱に死体を入れた。


天馬さんとの交流はこれきり終わる。それから後、僕はアーバンギャルドの商品を買うことをやめ、発売のたび友達に貸してもらう程度のファンになりゆるやかに流れを追った。その流れも、今ではほとんど途絶したと言っていい。一度は書き落としたが、僕はアーバンギャルドの音楽のファンであるよりむしろ松永天馬の言葉のファンであったかもしれない。ある時期までの“松永天馬の記憶の記録”は、からしの効いた広報ではなくテキストブログの幽霊だった。初めて目にした記事は、山内志朗の『天使の記号学』を紹介する内容で、これはのちに大切な本になった。エヴァンゲリオンに代表されるネオプラトニズム的な潮流に抗い現代における身体のリアリティを探る福音の書。松永天馬の言葉から見過ごされているものは、もしかしたら天使的な直観であるかもしれない。サブカル(身の毛もよだつほどむなしい言葉だ)めいた参照は子ども部屋における記憶の宝探しに過ぎない。探しているはずの子どもは、両性具有の、それだから無性の天使。いったい、松永天馬という人ほど哲学から縁遠い芸術家もいないだろう。必要ない、とも、見放されている、とも言える。天使的な言葉は(さまざまな引用の衣を脱ぎ着しようと)骨の非力と美しさである。哲学や思想の肉付けに憧れながら、どうあってもそぐわないからだがひとり立っている。その孤独に惹かれるのだ。
松永天馬の作詞法がだれに似ているかというと、秋元康。なにも秋元康を天使的だなどと言うつもりはないが不承不承言わねばならない。問題を差し戻すようで恐縮だが、アイドルという未明の身体器官について僕は言おうとしている。男が女目線で書いた言葉を女が歌う、ということはよくよく考えるに、いったいどういうことなのだろう?その歌を歌っているのはだれか?その歌が歌われるとき拍動する発声器官は、疑いようもなく天使的なのではないだろうか?


この原稿の依頼を受ける数ヶ月前、『天使の記号学』が文庫化された事実は天啓のように感じられる。
僕がアーバンギャルドにハマり、徐々に興味を失っていく過程においてなにが起こったか。
それは世界の天使的な均一化である。音楽産業において特徴的なのは、なによりもロックが死んだことだろう。試みに昨年のビルボード年間ヒットチャートトップ100の“MV”を見てみるといい。だあれも楽器持ってない。片手に酒、またはリーン(USで流行中のジュースに溶かしたドラッグ)、ひたすらに踊り狂っている。いわゆるバンドの形式は2割にも満たない。ヒップホップである。ここ10年でヒップホップはチャートからロックを押しのけ、またたく間に覇権を握ってしまった。中学時分からヒップホップを愛聴する身としても、まさかこれほどメインストリームの音楽に押し上がろうとは予想すらしていなかった。メインになったのはオシャレになったからであり、広い意味でのファッションに関わる。ブサイクでイカつくてこわい、という従来のラッパーイメージとは真逆に、昨今の若手ラッパーはイケメンで細身でかわいらしい。そしてどこか中性的である。この中性的の一点、天使的な領域に向かってあらゆる識別されたゾーンがずるずるべったり雪崩起こして混ざり合っているというのが僕の認識だ。
徴兵制度が現存する国のサイボーグ・メソッドによって性差を超えた美を体現する韓流アイドル、そのメイクと美容法を真似#metoo!の叫びの重たさ(昨今のフェミニズムの高まりは無性になりたいという真の欲望を隠蔽するように思える)を脱し軽やかな天使になろうとする若者たち、スポーツとストリートががっちり手を組み女子は口紅真っ赤FILAかChampionのパーカー、男子は短髪ノーワックス、ユニクロ無印ZARAのシンプルな黒ずくめでキメた見本市は、昨今のSupremeとNorth Faceの急激なブランド価値上昇と呼び合う。ネット出身ラッパーやゲーム実況の男の子たちもこのように装われたナチュラルな出で立ちで、多くが一重か奥二重、獣じみた男性性を感じさせぬふるまいにかわいいかわいいと女子から投げ銭もらう始末。その一方では、議論すべき問題はいつの間にか/既に議論し尽くしたという身振りを伴う強迫的な個体差の容認があり、LGBTの問題(やるなら徹底的にやらねばならないし深入りしたくないのだが、これだけは言っておこう。同性の友達から愛を告白されたらどうする?と、自分がその時どうするかは別として全体の権利は保証されるべき、という二つながらの視点を同じ領域で捉える必要があるのに、そうした観点がすっ飛ばされているように感じる)だの大森靖子やミスiDやCHAIの多様なかわいさの押し付け(おぞましい!なぜなら、多様なかわいさはただひとつの天使的な美に関わる特性を残酷にも容認してしまうからだ。つまり、かわいければなんでもあり、だから、かわいくなければなんでもなし。天使的でないジェンダー観、個性とやらにかかずりあう主体そのものがキモチワルイのだと)が浮上する。
ことほどさように、現在の日本を取り巻く文化状況は、天使的な領域の大渦に多様な文化圏が一緒くたになって引きずり込まれ、本来対決によって得られるべき傷と勲章をノンジェンダーニヒリズム(ノット、ジェンダーレス)によって留保したまま、だれもがあいまいな融和の快楽に浸っているように思える。その融和とは、あらゆる対立のなしくずしの混濁だ。ヒップホップがロックの王権を打倒した後に招いたのは、言語の同化形式であるラップとオートチューンの異化作用があらゆるジャンルを消化・平均化する事態であり、はっきり言ってみんな上手いけどみんな一緒、でこれが昨今の若手ロックバンド(といってもその実態はAORとソフトファンクと渋谷系の混成でちっともロックではない)にもピタリ当てはまり、男は前髪垂らして幼児性を強調しながら甲高い声で歌い、女はかつて男にのみ許された領域にかわいいの領土を広げ(といった次第で斬新、型破り、掟破りなアイドルたちのメディア出演と相成るわけだが、この掟破り自体が常套の掟と化しつつある)、ユニセックスの衣料がストリートからも高級デパートからも同様に提唱され、かつて個性を競った愛すべき勘違いファッションはほとんど街から姿を消し、無地を基調とする洗練された装いに身を包んだカップルたちが溢れかえる。
だから、繰り返すが、ここで起こっている事態はフェミニストが言い立てる女性の地位向上でもなく、おっさんが嘆き悲しむ男性性の価値暴落でもなく(いずれもある程度はその通りなのだが)、両性の、あるいはかつて盛んに叫ばれた個性の季節の廃絶、得るべき代償を同化の快楽に溶かしこみながら進行する、世界の無性化・天使化なのである。


例えば僕が感じている違和感はこんなふうだ。
自分らしく、が真に歓迎されるなら、男は男らしく、女は女らしく、という生き方も容認されてしかるべきではないだろうか?そのように“旧弊な”価値観すら、“新しい”自己像のヴァリエーションのひとつとして迎え入れられるべきではないか?
なにもそうした生き方こそが正しいなどと言いたいわけではない。だが、新しい時代の平等が、あり得べきすべてのヴァリエーションを抱き込めないというなら、その平等は真っ赤なニセモノだろう。それは建設の仮面をかぶった破壊、新天地に移住するためなら腐敗した大地を洪水で押し流すことすら辞さない、論理の暴力性である。
現在蔓延しつつある無性化の兆候を僕が天使化と呼ぶのは、こうした神話的な性格にも関わる。だれの目にも愛らしくかわいらしい存在である天使は、子供をいけにえに差し出すようアブラハムに要求する天使でもあるのだ。神の意志を伝達するメッセンジャーとしての天使は、透明で無責任な世界の残酷さそのものではないだろうか?
自分らしく、という大目標を万人が等しく達成できる世界が、絶えざる闘争の果てに少しずつではあるが着実に実現されようとしているーーこのような一見希望に満ちた歴史認識が無自覚に圧殺してしまうものは、個性を確立できない無個性な生、平凡な自分を生きていく自由である。このまま行けば、こうした生き方は、自己実現から逃げている、勇敢な選択を放棄する姿勢と見なされるようになるだろう。いわばその者の現在は、大いなる流れのなかで中座した過程として理解されてしまうわけだ。
しかしこれだけは言っておきたい。個人の現在はどこまで行っても現在であり、ありもしないストーリーの途中経過と断じる権利はだれにもない。
単純な話、男らしく生きるのがその人らしいならそれでいいはずなのだが、ジェンダーが文化的に捏造されたものであることを理由に(しかし、文化的に作られたものでない文化的な生き方などあり得るだろうか?)、それを許さぬ圧力がさまざま働いているように感じられる。圧力、と言うといかにも被害妄想じみて聞こえるかもしれないが、それは大抵「そんなネガティブにならずにさ、もう少し一緒に考えようよっ☆」的応援に装われているのだ。覚えない?
勝手に絶望する権利も、勝手に自殺する権利も、わたしにはある。
ひとまずはそのように断言できる自由こそが保証されるべき最低限の自由であり、これを容認しない国家も、フレーフレーで押しとどめようとする風潮も等しく危険である。なぜならここには、個人の心身の健康を管理調整することによって、集団を良きものにするという全体主義の思想が潜んでいるからだ。


例えば、煙草。僕は分煙にはおおいに賛成だが、いったいいつからその方針が完全禁煙=喫煙者廃絶の大目標にすり替わってしまったのだろう?
立場を明確にしておくなら、僕は喫煙者だ。だからもちろん、まいったな〜、こまるよな〜という気持ちもある。だがなにより恐ろしいのは、議論がすり替えられる手際の鮮やかさ、いや、むしろ鮮やかでないことを隠そうとすらしない奇妙に確信犯的な態度だ。誤解してはならない。われわれが目にしているものは、引田天功のイリュージョンでも、一流詐欺師の手練手管でもないのだ。あえて戯画化するなら、それは後ろ手にナイフを隠したシロートのマジックショーである。今のアタリでしたよね?ね?とナイフをチラつかせながらハズレのカードを指差されるうち、観客は先んじてアタリを叫ぶようになってしまう。
分煙やたばこ税増税電子タバコ導入の是非を巡る議論は、ほんの少し前まではたしかに“今のこと”としてあったはずだ。ところが完全禁煙というジョーカーの発動により、これら議論は最初からその大目標に至るまでの途中経過であったかのような外観に塗り替えられてしまう。大企業によるユニークな禁煙“応援”キャンペーン、有名大学の喫煙者排除の人事策、今年4月の改正健康増進法の施行。かくしてだれもが率先して記憶喪失となり、やがてはあったはずのすべてが本当に忘れ去られてしまうのだ。
あれ?なんか変じゃない?でもでも、最初からそうだっけ?う〜んそっか、記憶違いか、そっかそっかそうだったな……
自分らしさも、完全禁煙も、貫く背骨は同じである。それは個人の所有にかかる今を、集団が設定したゴールに至るまでの途上と断じ、ガンバローネ!のかけ声とともにより良き全体に回収してしまおうとするグロテスクな世話焼き根性である。


そもそも、人身への被害を理由になにかを禁ずるというなら、煙草より先に自動車を撲滅しろと僕は言いたい。
仮に煙草が緩慢な死を招くとしても、交通事故が毎日直接の死を大量にバラ巻いていることは明らかではないか?どれだけ事故が起きようと、どれだけ無残に人が死に続けようと、もはや後戻りできぬ利便性のメリットからこれを擁護するというなら、優先されているのはヒューマニズムではなくカーマニズムである。あんな鋼鉄の塊が走り回ってりゃそら人も死ぬわ!健康より命の方がまずは大事じゃないかしらん?と素朴に思うものだがどんなものだろう。
勝手に死ぬ権利は保証されてしかるべきだが、勝手に殺す権利はもちろん容認されてはならない。僕がこう言うのは、殺されることは死ぬ自由を奪われることだからだ。(ひねくれてるう)


さて。以上すべては、僕の独断と偏見、純度100パー生搾りの妄想に過ぎないのだろうか?
まさにそのとおりであってそのつもりで書いているからそのように読んでもらってかまわない。とはいえ、時として狂気の中にもひとかけらの真実が宿るはずだから、予想される誤解ぐらいは解いておこう。
僕は大森靖子やミスiD周辺が嫌いじゃないしなによりZOCの愛染カレンちゃんにガチ恋真っ最中だし若手邦ロックバンドは可能な限りすべてチェックした上でみんな素晴らしいと思ってるしCHAIは日本のトムトムクラブと称賛してはばからない。普段はデザイナーズのお洋服を着ることが多いがZARAのメンズはかっこよくて好きだし男らしく女らしくといった旧弊な価値観にこだわってLGBTの権利や女性の権利を否定しつつなんの役にもたたない益体もない男性性の顕揚を心密かに企んでいるわけでもない。ついでに言えば、右翼と左翼は平等に意見を見つつ平等に嫌いである。
だから、一見政治的に見えるかもしれない記述は、単に僕という人間の高度な複雑性と類いまれなる粗雑ぶりを表しているに過ぎない。なにせ脱輪は、生まれたその瞬間から誤解を受け続け(出生時の体重は新生児の平均体重の20分の1しかなく、母親は医師から「お子さんの命はもって2、3日でしょう」と告げられた。つまり、生死の判定すら誤認された)、ありとあらゆる現場になじめずなじめたかなーと感じるや反発して後戻りするように進んでいくぜんまい仕掛けの英雄なのである。
僕の生活がつまらないのは、世界が天使化しているせいではなく、単に僕自身がつまらないからだ。もしこの発言がネガティブに聞こえてしまうとすれば、残念ながら、そんなあなたと世界は激しく間違っている。


やっちまった。韜晦は分析の敵なのに。どうしよう。素知らぬ顔して続けるからもう少しガンバローネ
そう。僕を取り巻く状況はすっかり変わってしまって、僕が好きだったアーバンギャルドを取り巻く状況もすっかり変わってしまった。いちいち注釈を付けるのも面倒だが一度だけ仁義を切っておこう。
「あなたを取り巻く状況とあなたが好きなアーバンギャルドを取り巻く状況がどうなっているかは全然知らないし聞かせてほしい(この文集に寄せられる作品たちは脳内で数百の罪を重ねる脱輪を完膚なきまでに清々しく打破するものであってほしい。えらそーに死ね!)」
ツイッターにこんなことを書いた。「アーバンギャルドが時代の空気とリンクしていた蜜月はたしかにあった。そしていつしか、時代と寝る役割を終えたのだ。もちろん彼らがダメになったということではない。時代の寝室をそっと抜け出してからが本当の勝負なのだ」
わかったようなことを。だいたいが◯◯は終わった式の発言をする輩はてめえの脳の足りなさを誇示しているに過ぎない。が、今でも枠組みは変わっていない。
当時天馬さんも言及していた小悪魔agehaの病み特集“病んだって、いいじゃん!”は、エポックな出来事だったように思う。この前後が病、少女、サブカルの三色弁当としてのアーバンギャルドが時代と完璧に共振していた蜜月だった。なんとなればこの頃、オタクはオーバーグラウンド化しつつあったものの、病みはまだまだ文化の周縁に留まっていたからだ。周縁にある、ということは中心が抵抗している、ということで、このような状況において抵抗を表現に変えていく試みこそ「時代と寝る」蛮勇だろう。“病的にポップ、痛いほどガーリー”というスローガンを掲げたアーバンギャルドは、見事この挑戦に打ち勝ったと言える。
しかし、どんな前衛もかならず本隊に追いつかれる道行き。ゴダール鈴木清順の大胆な撮影法が現在では当たり前になったように。初演では悲鳴と怒号飛び交ったストラヴィンスキーの『春の祭典』がクラシックの古典になったように。シュルレアリスムが本来の理念を抜き取られた上でシュールと日常使いされるように。病、少女、サブカルはここ10年のうちにすっかり一般的な表現の具になってしまった。消費され、拡散し、あいまいな全体のなかに溶け込んでしまった。かつて周縁だったものが中心に取り込まれた形、とはいえ、必ずしも認められたわけではない。天使はキタナイの自由と矜恃をキレイキレイ洗い流してハグする。いちおうは友好的なハグをまさか拒否するわけにもいかず、うっかり抱き込まれるオチ。
当初、病的な領域がポップに受け入れられる理念を標榜していたアーバンギャルドだが、実はこのような身振りは世界からの抵抗がある限りにおいて可能なのだ。中心が倒れぬからこその周縁であり、確固たるメインがあってこその“サブ”カルチャーなのである。積年の願望が不意に成就してしまったら。全力で押しこんでいた壁から、不意に抵抗が去った瞬間。勢いあまってこける。ずっこける。
いわく承認はバナナの皮である。果たして、現在のような受け入れ態勢をアーバンギャルドは予想し得たであろうか?予想し得たはずがない。予想してなお、戸惑ったに違いない。前衛は恐るべき速さで呑み込まれる。永遠に前衛のままでいられるのは、皮肉にも、絶えず蠕動する大衆という消化器官のみなのである。そして今では、ひとつのトレンドを新たなトレンドが塗り替える新陳代謝すら機能しなくなっている。時代のモードなどというものは存在しない。各自がバラバラに好きなものを享受し、同世代でさえアプリゲーム以外に共通の話題がないように思える。天使化は平等の多様化ではなく、多様の平等化、クリーンな砂漠なのだから、マーク・フィッシャー言う通り「ここから先は、なにもない」(としか思えない……)


時代に追いつかれたアーバンギャルドがその後追い抜かれ砂漠に置き去りにされたひとつの要因は、ファッションにあったと思う。一般的なイメージとは裏腹に、アーバンギャルドはオシャレバンドである。発足時から衣装や美術などのビジュアルイメージに凝る、良くも悪くもコンセプト狂いな性質からしてファッショナブルだったし、そんなバンドは他に見当たらなかった。
が、当初こそ新鮮に映った80年代の拡大再生産、自覚的なイメージの装いは、装わない装いを装う(無地Tシャツの流行を想起せよ!)天使化の波に特異性を奪い去られてしまった。ちゃんと言うとこれは、アーバンギャルドじゃなく大衆の方がオシャレじゃなくなった、オシャレのモード自体が転覆してしまった、さらにちゃんと言うと、ボードレール以来エフェメラの快楽を奪い合う戦争であったモードのコードから若者が脱却し(金も欲もないから、別にイイっすわ、兵役を忌避し)はじめたのである……
危機を感じた。正直焦った。アーバンギャルドの問題は僕の問題だったのだ。だから、きのこヘアーにサングラス、黒スーツに黒ネクタイという松永天馬のファッションが『都会のアリス』で激変した時には快哉を叫んだものだ。鮮やかに染め上げられた金髪、時計じかけのオレンジ風のサスペンダールックに、タイトルのアリスにちなんだトランプ柄の全身タイツ。新鮮だった。さらに、PV(あくまで!)に映された砂漠は、アーバンギャルドが時代に置き去られた地点から再び行軍する決意を表してもいたのだ。頼もしかった。
しかし、と今になって思う。あれでも足りなかったのだ。もぉぜんっぜん!たりてなかった!!!
僕の感触では、『都会のアリス』がリリースされて少ししたぐらいから、世界の天使化は一気に加速した。その残酷なスピードに対応するには、変化はまだまだ正気の範疇だった。ああ、天馬さんはメガネを外して美容系Youtuberになるべきだった。よこたんは金髪ボブにしてマイクロビキニを着るべきだった。バンドの名前はperfumeにするべきだった。少なくとも、アーバンギャルドというイメージのコードを完璧に破壊して作り直す必要があったのだ。
きっと、あの時点でもっともオシャレだったのは、過去を黒歴史に変えることだったろう。アーバンギャルドには黒歴史がない。どの時代も考え抜かれ、それなりに成立している。そこが問題なのだ。


今、改めて表現をやっていく上での課題はファッションだろう。それは身につける自己啓発であり、社会におけるポジショニングであり、コード化された生きやすさを選択する技術を指す。天使として身をかわすため、着る、よりむしろ脱ぐ、削ぎ落とすメソッドこそが重要視されるのだ。
天使は両性具有だという。このことは二通りに言い換えられよう。
男でも女でもない。男でも女でもある。
これまで僕は、一つ目の用法から世界について語ってきた。だれもが清潔に、無性になりたがっていると。だが実は、こうした欲望が招来する未来はSF的なユートピアではなく、とことんまでシビアな現実社会である。本来、ファッションと恋愛は互いに差異化のゲームであるため相性がよく、相乗効果によって生じた欲望を貨幣という単一価値に変換するシステムが資本主義だと言える。ところが、均一化を強いる天使社会はファッションと恋愛の遊戯性をご破算にしてしまうのだ。
極端な話、合コンに男子全員が坊主頭ユニクロの白無地Tで来ることが義務付けられたとしたら、女子側からの判断材料は、その人物にもともと備わっている性格やルックス、稼ぎや地位しかなくなるだろう。つまり、ゲームキャラのように数値化可能なステータスのみが要求されるようになるわけだ。天使化の背後には、こうした合理的な判断形成を、文化的な領域の隅々にまで行き渡らせようとする意図があるように思われる。昨今流行りのミニマリズムノマドも、同じ文脈から捉え返されるべきだろう。
コスパがいい!と叫ぶ裏で、ほんとうはみんな、疲れきっているのだ。選択肢はできるだけ減らしたい。服を選ぶのも音楽を選ぶのも恋人を選ぶのも、最小限のコストで済ませたいのだ。ところが、ファッションにはフラットな判定を妨げる力が備わっている。どんなキモヲタだって、全身ディオールオムでキメればそれなりにかっこよく見えてしまうのだから。天使化する世界にあっては、ファッションはステータスを狂わせるエラーなのである。
余談、おもしろおそろしい話。自分は30年メンズファッションを研究してきた。オシャレは完全に理論化できると信じてきた。その過程で、いわゆる女子ウケファッションとはなにかも考え続けてきた。シンプルなのがイイ、とはよく耳にする意見だ。定番アイテムは白シャツ、黒のテーラード、グレーのスラックスだろう。ある時はたと気付いた。これって学校の制服じゃん!シンプルな服装が好き、は制服みたいな格好が好き、なのだとひとまずわかった。しかしなぜそれがいいのか?やがてわたしは名状しがたき渾沌から這い寄る身の毛もよだつ結論に辿り着いた……そもそも、女子は男子にオシャレなど求めていないのではないか?シンプルがイイ、のではなく、飾り立てられるのがキラい、なだけなのではないか?生物学的に優秀なオスを見抜かなければならないメスは、美的な装飾で批評眼を曇らされたくないのだ。最短・最速で最高のオスを選び取らなければならない。オシャレを競う類のファッション、わたしが30年間追い求めてきたファッションは、むしろ女性にとって余計な技術の集大成だったのである。忌まわしい……このように人倫に悖る人智を超えた事態があってなるものか。わたしは大きく息をつき禁断の研究成果をそっと火にくべた……ある偉大なファッションライターはこのように書いていたかもしれないし書いていなかったかもしれない。


ふたつめだ。
男でも女でもある、という天使の側面。もしかしたらこちらの方が本質かもしれない。
“関係性に対する欲情”というテーマをここ数年考え続けている。その昔乃木坂46論を書いた際に浮かび上がってきたテーマなのだが、単純な話、グループアイドル花盛りのなか、なぜソロアイドルが姿を消したのか?
商業的に成功したソロアイドルは、今のところおそらく松浦亜弥が最後だろう。古ぅっ!と言われるかもしれないが、要はそれぐらい出てきてないわけで、ハロプロが総力を結集した真野恵里菜の売り出しが失敗に終わった時(現在、ええ女優さんにならはったけど)、時代の潮目が変わったことをはっきり知った。と同時に、AKBにどハマリし、その後いろいろあって大失恋した僕を絶望の淵から救い出したのは乃木坂という名の希望……
そんなん、よろし!結論から言うと、グループアイドルばかりがもてはやされるのはみんな関係性に飢えているからだ。ソロでは関係が生まれない。だからダメなのである。ドルヲタ界隈には昔からカップリング愛好とでも呼ぶべき形式があって、初期AKBならあつみな(前田敦子高橋みなみ)、SKEならじゅりれなあるいはW松井(松井珠理奈と大天使松井玲奈様(れ・ω・な))などのカップルネームが存在していた。つまり、一人と一人、ではない、二人であることの物語をこそ楽しむわけだ。グループの人数が多ければ多いほど、カップリングの組み合わせは増えていき、そのぶん様々なドラマが生まれる。グループアイドルの流行は、華やかなアイドル業の裏にある地道な努力=ストーリーが秘匿されずむしろ積極的に商品化される傾向と無縁ではあるまい。極端な話、アイドルそのものにではなく、メンバー間の絆や関係性、人と人のあいだが分泌するストーリーにこそわれわれは惹き付けられ、欲情しているのではないか?
初期乃木坂のブランディングは見事だった。圧倒的なルックスを盾に男子禁制の名門女子高、清楚なお嬢様感を全面に押し出し、男子のみならず女子にさえ「この輪の中に入りたい!」という秘めやかな願望を掻き立てたのだ。つまり乃木坂は、A×B式の従来の関係図式を拡大し、秘密の花園めいた関係性の網目(MVには百合的なイメージも大いに活用された)そのものを組織化してみせたわけだ。これが成功のひとつの要因だった。
さて、現在。隠されていた関係はどんどん露出し、われわれはますます盛んに他人の秘密でオナニーしている。
ソロYoutuberからカップル/グループYoutuber人気への以降(ソロの場合は、ソロ同士の間で必ずなんらかの関係性を仄めかしストーリーを捏造する。ある人気男女Youtuberなど、ほとんど恋愛関係の匂わせのみで100万PVを稼いでいるほどだ)、インスタでおそろコーデやデート風景を上げまくるカップルアカウント、仲の良さあるいは悪さを“ビジネス”アピールするバンドマンたち、「だれかとだれかの間」そのものの痕跡であるツイッターのリプ欄、あるいはフリースタイルダンジョンを契機としたバトルブーム。
最後のトピックだけ毛色が違うように思われるかもしれないが、売りものにされている関係が友愛か諍いかというだけで、本質は同じ。死ねだの殺すだのさっきまで罵り合っていた二人が抱き合い握手を交わすドラマは、反対にピリピリしたアイドル現場(たかみなぐあいわるいんだからふざけんじゃねえぞ〜)をさらけ出す商売とプラスマイナス重なり合う。最近でいえば、なんつってもアレ。南海キャンディーズ山ちゃんと蒼井優。グループYoutuberの動画でよく目にする「この二人の関係性ほんと好きwwww」というコメントが日本中から大々的に捧げられた好箇の例だろう。
結論。いよいよもってわれわれは関係性に萌えている。そこから手前勝手なストーリーを紡ぎ、披露したい欲求を隠せないでいる。
このことを、AとBのあいだにCなる理想人格を見出している、と解釈すると、途端にすべての物事がクリアになってくる。男でも女でも、人間でもないC。つまりそれこそが天使なのだ。ファッションの制服化、個性の価値暴落、性の均一化、ヒップホップの大流行、なしくずしの極右化。目指されているものはC、非人称の人格である(国家は非人称の人格そのものだから、お国の“ために”なんて発想が簡単に出てくる)。なぜAではいけないのか?Bではいけないのか?きもちわるいからである。男でも女でも、自分でも他人でも、人間であることがきもちわるくてしょうがないからである。
だから、Cを愛しているというのは、本当はAやBをうまく愛せないということなのだ。山ちゃんになりたいのでも、蒼井優になりたいのでもない。自分以外の他人になることなんか想像もできない。なりたいのは、あの二人の間にある空気、素敵なカップル像そのものである。そんなものの方が不思議となれる気がするのは、半分ずつ人間、天使のカラダだからだろうか?


初期アーバンギャルドのファッションは、スーツやセーラー服といった同一化のコードに則ったユニフォームだった。とはいえ、それを操る感覚は「他のバンドがやってないから」という差異化のコードに準じたものであったろう。変えるべきは、コードそのものだった。
このことは、昨年再始動したSPANK HAPPYのビジュアルイメージを見ればよくわかる。初期アーバンギャルドのひな型とも言える第二期スパンクス(実際には、天馬さんはその存在を後から知ったらしい)がセクシャルで近親相姦めいたイメージを打ち出していたのに対し、第三期スパンクスユニセックスの兄弟というイデアを体現している。初公開されたアー写は、真っ白なカッターシャツに黒縁メガネをかけた二人が見つめ合うことなく向かい合うポートレートで、男女の性差や10もの年齢差がスッキリ解消されたものだった。まさに、今!な天使イメージの完璧な具現化。おまけにこの才能豊かなバカップルは、SNS上での関係の仄めかしにも熱心なのだ。男でも女でもない、ノンジェンダーなイメージに加え、男でも女でもある関係性の欲情にさえ応えてしまっているのである。
それでいくと、後者の天使性=複数であることの遊戯を売りものにする姿勢がアーバンギャルドからほとんど欠如している点は興味深い。男女がデュエットするスタイルでありながらいっさいの仄めかしを拒否し(浜崎容子が菊地成孔のラジオに出演した回は、従ってIFの世界線を想像させる)、メンバー同士も昔から仲がいいのか悪いのか判然としない。
では、前者ならどうか。男でも女でもない軽み。これについては行儀よく失敗している。行儀よく、というわけは、この失敗が慎重に獲得されたものだからだ。実は「整った顔立ちをしている」(cv.菊地成孔。とはいえ、ファンはみんな気付いてるはず)天馬さんは中途半端なグッドルッキングを裏切るべく、“アーバンギャルド松永天馬”というキャラクターを、欲求不満の中年男、得体の知れないキチガイ、獣性としての男性性を振り回すゆるキャラ、というように設定した。反対に、女性ボーカルには、綺麗で勝ち気、凛としたイメージを立てた。だから、天馬さんの黒スーツは画一化された男性性のコードというよりむしろ、男性性そのものの誇張だった。よこたんの黒髪ぱっつんは、変化に抗う少女のイコン。かくしてジェンダーコントラストは、ステージパフォーマンスからボーカリゼーションにまで徹底され、アーバンギャルドは男と女が誇張された男と女を演じ直すことで生まれる劇的な批評性を手に入れた。そして、計画通り、ジェンダーレスな軽みを失ったのだ。
まとめ。天使化に対応するファッションコードも、エモさを生成するための関係性も、アーバンギャルドは取り逃し続けている。メンバーのインスタ使い、あのなんとも言えない不器用さの要因もこのあたりに潜んでいる気がしてならない。(かつては情報発信の場であったツイッターすら、今ではたわむれなコミュニケーションツールであるからして)


というわけで、最近じゃルールからはみ出すソロ活動の方が興味深い。
天馬さんは、じっくりじわじわコンセプトの縛めを解いていっているように思える。ラフなTシャツ姿なんかも見かけるし。だけど、もっともっと、弾けてもいいのになあ。ほんなら、『ラブハラスメント』はどやねん!あれはよかった素晴らしかった。中年男性のキモチワルサをクリティークとして自立させる困難、岡村靖幸ミラクルジャンプ』のいわばシャイで引きこもりの日常を返上したいきっとそーうさーそおーのおーの、絶妙な枯れ具合がちゅくちゅくちゅくちゅくあーのあーに継承されていてちゃんときもちよくファンクしていた。一方、よこたんの角松敏生とのコラボには意表を突かれ、思い返せばソロ1作目『FILM NOIR』は清冽であったことよ……とはいえ、ここまでの流れからして肝心なのはファッションブランド“FORGIVE ME”立ち上げの方だろう。
他業種の有名人によるブランド運営がしばしばうまくいかないのは、アイコン化とブランド化が、馴染むようでいてこすれ合うからで、アイコンを着る技法としてのファッションが有名性のアイコンに干渉するからだ。名前と実体の距離こそ心臓。ネームバリューを元手にするはずの彼らが、けっして自身をブランド名に冠さないのは、Paul Smithagnes b.やヨージヤマモトといったハイブランドの本来的な無名性とは対照的である。その意味で、「どれくらいの人がいくらまでなら払ってくれるかの実験でもある」と語る、中田敦彦手がけるブランド“幸福洗脳”は注目に値する。合わせて動向を追っていきたい。


えーーーっと。
音楽が好きなので音楽の話をしようと思っていたのだけどもう遅い。手遅れだ。走り出す時はいつも周回遅れだ。まあ、この文章から周到に音楽が抜き取られているのは、存在論的に宿命的に天使的である音楽はかえって天使的であることがムツかしいという当たり前の逆説のためでもあるのだけど。だから音楽は神と一緒、ひとりぼっちで充足してる。足りてないのは言葉だけ。
パンと言葉が足りなくて
僕が一番最初に好きになった曲『エクリチュール アバンチュール シュール』の歌い出し。
松永天馬の言葉から見過ごされているものは、もしかしたら天使的な直観であるかもしれない、と書いた。見過ごされている理由はいろいろあるのだけど、ひとつにはたぶん、ある時期から天使が少女に受肉してしまったせいだろう。むくつけき男が書いた詩を少女が歌う、という構造からしてすべてのアイドルソングは天使的な言葉で歌われる。まさにこの特性によって、孤独な直観は集団の論理にすり替わってしまうのだ。
仮に、松永天馬の歌詞を天使的/少女的と分類してみよう。秋元康に近い、と書いたのは少女的の方で、これらは基本的にワンワード・ワンツイストの手法で書かれている。いかにも専門用語めいた思いつきのこの語を要するに、その時バズってるワードを取り上げひとひねり加えることによって思わぬ旨味を引き出すやり方のことだ。
アーバンギャルド『自撮入門』……自撮り行為を語感からジサツ=自殺と読み替え寺山修司に繋げてみせる、『前髪ぱっつんオペラ』……まっすぐ下りた少女の前髪をオペラシアターの緞帳に見立てる、AKB48ヘビーローテーション』『フライングゲット』……繰り返し曲をリピートするヘビロテ、発売前にCDをゲットするフラゲをそれぞれ恋心になぞらえる。
まあ、やすすの場合はなんでも恋愛に結びつけちゃうわけだけど(しかも選ばれるワードがジャストじゃなく、古い。これについては無自覚と見せかけテレビを介した受容速度に合わせてると思う。対して、アーバンギャルドはインターネット肌感覚にのっとり、わりとジャスト)、別にそれって職業的なアイドルソングの定番なわけで、天馬さんはある程度自覚的にアイドルソングとして歌詞を書いているはずだ。きっと、昔のアーバンギャルドが活動を続けている並行世界では『病み営業』なる曲がリリースされていることだろう……
じゃあ天使的な歌詞はどんなのかというと、言いたくない。理由のひとつには矜恃があり、ふたつにはものぐさ、みっつにはてめえで考えろがある。唯一のヒントは『エクリチュール アバンチュール シュール』を僕が天使的だと捉えていることだが、そもそも実例出して分類なり分析なりする気はさらさらなかったのだおーざっぱな視点だけ提示して、ほなさいなら!後は任せた!ってのがこの文章に課せられた使命なのに脱輪がその枠をはみ出していこうとするんだピアニストを撃て自ら殺せ。
天使的は、少女的の奔放な肉体に呑み込まれトレードマークと化していった。少女的には生理のごとく重い論理性がつきまとい、直観は経血に流されてゆく。なぜなら、アーバンギャルド世界における“少女”はとりわけ重要なメタファーであり、松永天馬のアニマを注ぎこむ透明な器、ファンとバンドの間を取り持つ関係性の肉なのだから。などと思ったことは一度もない。いいかげんうんざり。僕にはどうしても、病や少女が松永天馬という人のトラウマだとは思えないのだ。百歩譲って、アーバンギャルドのトラウマだとしても。
今こそ告白しよう。天使的な直観とは、世界の天使化と無関係であるばかりか、永久にすれ違い続ける概念なのだ。後者が溶け合う肉であるのに対し、前者は見放された骨。
「キスとテキスト 交わしても
ひとみ読まれて ひとりにされて」
集団の世界においてひとりを維持するためには、天馬さんのあの目がいる。今じゃないあの時の、人殺しのひとみが。それから、いたずらな少女に毟り取られた羽根が、あらゆるファッションから見放された言葉が、関係性の網目に捕えられない巨大な孤独が、たしかにあって。これらの可能性を掘り起こし検証することのうちに、天使化する世界に誇り高く取り残される作法が隠されている気がするのだ。
勝手に生き、好きなタイミングで死ぬ。そんな自由を抱くのは、コクトーが描いた天使でも、ラディゲが綴った天使でも、クレーとベンヤミンが想像した天使でもない。もっとも近いのは、パトリック・ボカノウスキ―のアニメーション『天使 L’ange』に登場するおっさん、泡だらけのバスタブでからだをこすり、ウヒャウヒャ笑い続ける毛むくじゃらのオヤジである。
ああ、ひとりぼっちの勇敢なお風呂で笑いたい。なめらかな肌を突き破る骨として書きたい。こっそり恐怖を泡立て続けたい。
そのために、キレイなファシズムに抗わなければならない。天使になるべく天使化を拒絶しなければならない。“男でも女でもない”も、“男でも女でもある”も、うっかり乗り過ごしてしまった二つのアーバンギャルドのあいだに、僕の夢想する天使が宙吊りにされている。それは直観としての言葉、呪文としての言葉、松永天馬のトラウマとしての言葉。あるいは単に、言葉、と言い換えてなお、明るい部屋で真っ暗な手から逃れるだろう。
だから、ゴールはない。スタートまでたどりついたらもう一度。声に出して読んでごらん。
「今さら脱輪について語ることなどあろうか」


2019#07#05#13#07#17648