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愛をひっかけるための釘

一人で寝たのにだれかと寝た気になって起きたら朝、そのだれかはいない安心のぶん、一人が悲しくなる。
寝ぼけながらそんなことを言って最初から一人だったのにね、と付け足す。ふわ〜あ。スポンジが開くような伸び。
朝。昨日の続きである、という事実がいつになく重たい朝。
 
 
 
八月の終わりだったと思う。女の子に取ってはなんでもないことだっただろう。男に見せる特有の媚びと嘲笑、ちょっとしたかまかけのようなものだったかもしれない。しかし僕には明確な回答のように響いた。ついこの間までだれかと寝た経験もなく、ましてだれかとともに起きる目眩と幸福になど思い及ぶはずもないのだから、返事は沈黙しかなかった。日射しがまぶしい。
近くのコンビニに菓子パンを買いに行く。隣りは幼稚園だった。はっきりしない頭で、彼女が一人きりで目覚める朝を想像してみた。
気の多い子だから、衛星のように男は回る。そういう話を聞くのが好きだったのは、話を聞く時間だけ“他の男”でいられたからかもしれない。だけどもちろん、彼女にだって一人で寝る夜がある。当たり前のことに、僕は初めて思い当たったのだ。
目覚める。昨夜の浮かれた気分とアルコールがわずかに残っている。ふと笑いかけると、隣りがいない。からっぽになったように彼女は感じる。ぼやけた頭でシーツをまさぐり、ようやく気付く。だれもいなかった。一人だった。最初から。
幼稚園の錆びた門が音を立てて開かれるのを眺めながら、僕はその朝の彼女が、泡のような慰めに見放された体が、見える気がした。とても大切なことが、わかったような。
あるひとつのことが完全にわかると、それまでわかりかけていたことはすべて役立たずになってしまう。
僕はそれまでと同じようにやはり、自分が恋愛などしていなかったこと、自意識の領土を拡大して取り込む方法でしか彼女に触れられなかったこと、最後まで自分と同じ他人として彼女を見れなかったことを知った。そしてそれらは彼女のものではなく純粋に僕だけの問題であったために、知ると同時に後戻りができなくなった。
 
 
 
コンビニの菓子パンは種類が少ない。少し迷って、北海道牛乳パンを選ぶ。ものを食べることが恐ろしく似合わない子だったが、からっぽの冷蔵庫に一度だけ、そのパンを見つけたことがあったからだ。そんな記憶を引き出せる自分を誇らしく思うと同時に吐き気がした。
恋人に関する記憶で一番最後に残るのは、間取りではないかと思う。顔など微塵も覚えていないくせに、彼女の部屋の間取りだけは克明に思い出せる。
あの寒々とした海底のような部屋。一人暮らし用の小さな冷蔵庫は壊れていた。パソコンも壊れていた。クーラーはなく、扇風機は埃をかぶったままで、地獄のように暑かった。裏のステーキ屋から肉の焼ける臭いが届く。その店はピーピングトムという名で、覗き魔って意味だよ、と教えると嫌な顔をされた。
 
 
 
「これなら間違いないかと思って」
部屋に帰り、北海道牛乳パンを差し出すと
「好きー。でも昨日のことは許さない!」
許してもらいたかったわけじゃない、と今にして思う。ただわかってしまったすべてのことをわかりかけていた状態に戻したかっただけだ。そうすればきっと、もう少し一緒にいられる。
だけどいずれにしろ、それは甘い考えだったのだ。学習は人間を遠くに放り投げ、二度と戻さない。北海道の地形を模したキュートなパンは、キチガイじみた朝を救ってはくれなかった。
不機嫌なままもそもそとパンを食べ始める彼女。その様子はやはりどこか滑稽に映る。しかし違和感はいつものように僕の心をひっかけることなく、ただ擦れて細かい傷を作るだけだった。
 
 
 
他人の孤独というものがわからない。まして女の孤独など。自分以外の人間が自分と同じように生きている実感を持てない、と要約すれば陳腐だが、それはやはり到底不可能なことに思えてならない。
それでも眠れない夜に思い浮かべるのは、一人で寝て一人で起き、少しのあいだ絶望して似合わないパンを食べる彼女の姿で、恋愛とは遠い地点から僕を釘打つのだ。