オリジナルな狂気(ケーキ)を焼く 〜映画『アダムズ・アップル』が特別な理由〜


《 調理にあたって、下ごしらえ 》

 

 

かつてブッダが到達した悟りの境地とはどのようなものであったか。それは例えばひとつを入れたらすべてが出てくる関数が通常の脳の働きに取って代わった状態だと言えよう。われわれは世界の諸相をまずイメージとして捉え、言葉によって具体化した上で論理に従って並べ替える。それらのパズルのピースが互いにくっついたり離れたりしながら形作られた連関の総体がおのおのの思考のベースになっていることは言うまでもない。例えば、リンゴという言葉を聞けば、赤い、丸い、おいしい、果物、青森、農家などの言葉が思い浮かぶだろう。もちろんこれらの語句には無限のバリエーションが考えられようが、いずれにせよ各人の頭の中でリンゴと結びついた“既に論理化が完了したイメージ”の範囲を超え出ることはない。というのは、本来あいまいで無関係なイメージが関わりを持つためには、必ずなんらかの論理性が必要になるからだ。さきほどの例に沿って言えば、リンゴであるから~色は赤い、形は丸い、味はおいしい、種類は果物、産地は青森、生産者は農家、といった具合に。つまり、aに対する応答は通常かならずaに近接するイメージの集合体=Aの中から出てくる。これをa’とした場合、aなる入力に対してはa’、bに対してはb’、cに対してはc’がきまって出力される・・・このような関数こそ、われわれが意識と呼ぶシステムを動かしている仕組みなのである。

 

 

ところが、われわれの経験には、aという言葉を聞いて、なぜかBに関わるイメージやCに属する言葉が連想されるケースが容易に含まれる。リンゴという言葉を聞いて、赤い、丸い、の代わりに、泥棒、映画館などの一見無関係な言葉が想起される場合がそれだ。このような経験の多くにおいて、当事者は自身の反応を説明することができない。つまり、なぜ赤いではなく泥棒が、丸いではなく映画館が浮かんできてしまうのか、それらのイメージが自己の内部においてどのようにリンゴと結びついているのか、論理性を明らかにすることができないのだ。こうしたイメージの混在は特に珍しいものではないが、生活の全般に及び始めると狂気に近づく。狂気とは、意識の関数にならって言えば、aの入力に対してa’以外にもb'やc'が出力されるという通常のエラーを逸脱するエラー、いつも必ずb'やc'が出力されてしまうという重大なシステムエラーを指す。つまり、赤い、丸い、とともに泥棒、映画館が連想される状態は正常だが、泥棒、映画館だけが連想される状態は狂気だというわけだ。「昨日リンゴ食べたらさー」という切り出しに「ああ、あの映画館ね」とか「この泥棒!」などと返す人物の姿を想像してみるといい。近代的な医療理念が浸透する以前、同性愛は精神疾患の一種と考えられていたが、これは、男性に対して女性、女性に対して男性が出力される恋愛関数が正常とされた時代における”誤った関数”であったためだろう。狂気が指し示す内容は歴史によって様々に移り変わるが、それをシステム化したエラー/出力のねじれた関数として扱う大枠には変化がない。

 

 

だがそもそも、些細であれ重大であれ、システムエラー/出力のねじれはなぜ発生するのだろう。a→a'式の関数が正常に機能するのは、関連するイメージが言葉の袋で仕分けされ論理のひもで結び合わされているからだ。とすれば、a→b’のようなねじれが生じてしまうのは、言葉と論理のいずれかもしくは両方に問題が起きているからではないだろうか。袋が破れていたり、ひもが切れていたり。19世紀末にフロイトによって創始された精神分析学は、こうした裂傷の要因を無意識の働きのなかに探り、言葉と論理を通じて形成される個人の物語=ストーリーに着目するに至った。われわれが普段認識している意識は、実は意識全体のわずかな陸地面に過ぎず、その周囲には不気味な無意識の大海が広がっている。前者の意識から言葉を取り出すことができるのは、それが“既に物語化が完了したイメージ”によって構成されているためだ。一方、なんらかの抵抗にあったせいで物語化を完了できなかったイメージは無意識の底へ沈んでいき、言葉にならぬ声を発し始める。この声を無視し続けていると、最悪の場合、訴えは心身の不調となって現れ出る。したがって、精神分析における治療とは、患者自身から発されている無言の叫びに言葉と論理を与える手助けをすることにほかならない。こうした名づけ直しの過程において、物語化を阻んでいた抵抗の内実が徐々に明らかとなり、裂傷が修復され、頓挫したストーリーが完成した瞬間、症状は自然と治癒する。治る、というより、症状がみずから去るわけだ。

 

 

これは、一見すると「迷子のb'が本来の家であるBのなかに吸収されていきa→b’のねじれが見事解消された」という事態を指すように思える。だが、より正確には、このような物語を意識内部に作り出す試みこそが精神分析なのだ。なぜなら、嘘であろうと本当であろうと、物語が完成しさえすれば症状は回復するのであって、そもそも当の本人が忘却している事柄の真偽を判定することなど不可能だからだ。では、自身優秀なドクターである物語化を邪魔する抵抗はどこから来るのだろう。それは、意識関数の範囲内で処理しきれない理不尽な経験から生まれる。「廊下を走り回っていたら怒られた」「ある人の悪口を言いふらしていたら殴られた」できれば避けたいような出来事だが、これらの経験は言葉と論理を使って一応ストーリー化できるため、無意識の出る幕ではない。ところが、あまりにも理不尽な出来事「見知らぬ人にナイフで刺された」「突然の事故で最愛の息子を失った」などの悲惨な経験においては、意味や論理を見出すことが困難であり、むしろそれを言葉にしようとすると傷を負う公算が高いため、無意識があえてストーリーを未了のままに留めているわけだ。一方、破片としての物語をより大きな物語のピースにはめ込むことで完了を代替する方法も存在する。「刺されたのは罪が浄化されるためだった」「息子を失ったのは神の試練だった」・・・おわかりだろう、宗教だ。精神分析を個人の物語の再インストールだとすれば、宗教はより大きな物語=世界観のインストールである。したがって、信仰者に神の不在を説いても意味がない。彼は神がいる世界ではなく、神がいる世界の物語を生きているのだから。いずれにせよ物語化は、世の中はそもそも理不尽なものだというナマの現実から身を守るための武器なのである。

 

 

程度の差こそあれ、 人はみななにかしらの物語を生きている。そもそも自分というストーリーが未了のままなら、今ここにいるわたしを過去に遡って語り起こせないとしたら、その人物は始終不安に苛まれるだろう。自分を物語化する経験を通してはじめて、われわれは自分であるかもしれないものや自分ではないものと親しむことができるようになるのだ。この通り、フィクションは可能性としての世界の物語化だから、宗教や精神分析と相性がいい。物語を生み出す宗教が創作における霊感を刺激し、物語を語りなおす(注釈をつける)精神分析がしばしば批評の具として用いられるのはそのためである。現実もフィクションも、物語化の手続きなしに読み解くことはできない。逆に言えば、ストーリーとして読み解く限りにおいて、同じ臨床上の知恵を使えるというわけだ。しかし、実のところ、あらゆる種類のどんな物語も生きていない人間も存在する。物語る機能が完全に壊れてしまった、エラーもシステムもすべてが区別なく一緒になってしまった、そんな人間の姿をぜひ想像してみてほしい。

 

手がかりに、ここまでの流れを関数化して整理してみよう。あくまでシステムの比喩として・・・

意識(現に把握されている意識)・・・a→a'、b→b’(※これはもちろんc→c'~z→z’を含み持つが、以下省略する)

無意識(の作用による一般的なねじれ)・・・a⇢b’

よって、いわゆる正常な意識は上記二つを統合した形態だと言える・・・a→a' or b'

狂気(ねじれの固定化・エラーのシステム化)・・・a→b'

無意識の訴えが症状として現れ出た状態(ねじれの常態化・エラーの頻繁化)・・・症状の程度や種類に従い、a⇢b’からa→b’まで矢印が濃淡を描く

 

 

精神分析の功績は、無意識の概念によって出力のねじれを構造化し、隠された内面のドラマを観察できるようにしたことだ。ねじれはただでたらめにねじれているわけではない。あるひとつのねじれa→b'が、現れるたびごとにa→c'、a→d’・・・とランダムに変化していく、などということはあり得ない。そこには必ずなんらかの法則、無意識による操作が存在する。こうした発見により、もし仮に狂気の正体がシステム化したエラーだったとしても、そのエラーはけっして修復不可能なものではないことが示されたわけだ。ただし、これはあくまで精神分析が用いるメスと縫合糸=言葉と論理が及ぶ範囲の事象に限られる。逆に言えば、あらゆる法則性を欠いたランダムな出力や自在にねじれる矢印の存在が確認された場合、精神分析ではたちうちできない。概念上、これこそが完全な狂気であろう。一行目を思い出してほしい。

かつてブッダが到達した悟りの境地とはどのようなものであったか。それは例えばひとつを入れたらすべてが出てくる関数が通常の脳の働きに取って代わった状態だと言えよう。

そう、完全な狂気とはおそらく、悟りに近いものである。ひとつのaを入力すれば、A~Zのすべてに関わるイメージがランダムに、時には複数出力される関数。ブッダ=お釈迦様が万物に慈愛をもって接することができるのは当然だろう。彼にとっては、人も虫も花も蛇もみな等しく価値がある=ないのだから。今この瞬間、目に映るなにもかもが同じものであるとともに違うものでもある。これは、単に平等と呼ぶにはなまやさしい、渾沌に満ちた恐ろしい世界であろう。言葉はイメージを区別するために、論理は区別されたイメージを繋ぐためにあるから、あらかじめいっさいの区別が失われた世界の暴力性の前にあっては無力だ。同様の理由で、精神分析も敗れ去る。人間を救済する理論としての精神分析が宗教に及ばないのはまさにこの点だ。宗教の強みは、言葉の限界を沈黙の言葉=信仰によって、論理の行き詰まりを保証された論理=教義によって乗り越えるところにある。

 

従って、完全な狂気の関数はこうなる。

完全な狂気(≒悟りの境地)・・・a→a'~z’

 

 

ところが、ここである戦慄すべき問いが浮上してくる。完全な狂気が、いかなる種類の物語にも頼ることなく直接に世界を経験する場合にのみ感得されるものなら、われわれが普段なにげなく口にする「ありのままの現実」とは、まさにこうした狂気の世界を指し示すのではないだろうか?なぜなら、ありのままの現実、人間の手が加えられていない自然の事象は、言葉の袋で仕分けされたり論理のひもで結び合わされたりしていないはずだからだ。それらはすべて、なんらかの物語をつたって認識可能な“現実”まで上昇してくるに過ぎない。裏を返せば、物語化できない理不尽な出来事の集積=ありのままの現実こそ、完全な狂気の正体なのだ。外側を覆う物語が剥がれ、露出した現実が狂気へと逆戻りする未来を回避すべく、人間は言葉と論理を使ってさまざまに文明を築き上げてきた。無意識による症状形成は、こうした人類規模における防衛の、個人的なレベルでの現れにほかならない。このように考えてみた場合、われわれは永久に現実に触れることができない、という結論が出てくる。それが可能なのは悟りを開いた聖人か狂気に蝕まれた者だけだろう。いやむしろ、こう言った方が正確か。それぞれの物語を介して現実を遠ざける努力を通じてのみ、われわれはようやく“現実”を生きることが可能になるのだ、と。

 

 

さあ、いよいよ下ごしらえも大詰めだ。後の分析に役立てる目的から、改めて全体を整理すると・・・

意識(ねじれなし)・・・a→a'

無意識(ねじれ)・・・a⇢b’

症状(ねじれの発生)・・・a⇢b’~a→b’

狂気(ねじれの固定化)・・・a→b'

完全な狂気(ねじれのランダム化)・・・a→a'~z’ = ありのままの危険な現実

 

となる。

 

 

 

《 調理 》

⚠︎調理に先立つ注意⚠︎

以下、映画『アダムズ・アップル』の具体的な内容に踏みこみます。まだ見ぬケーキの味をそこないたくない、という方はご注意を!

なお、登場人物のセリフを表すかぎかっこのうち、『』内は正確なセリフの引用、「」内は大意を意味します。

 

 

さて、意識を巡る関数モデルが出揃ったところで、ようやくアダムズ・アップルだ。あらすじを紹介しよう。

仮釈放中の囚人を更生させるプログラムの一環として、ある教会にネオナチギャングのアダムが送り込まれてくる。教会では、牧師のイヴァンとともに、中東系移民で強盗のカリドとアル中の肥満男グナー、二人の前科者が生活している。熱心な信仰者であるイヴァンは、都合の悪い出来事もすべて『悪魔が我々を試してる』試練として受け入れる極端なポジティブシンキングの持ち主だ。イヴァンに目標を立てるよう言われたアダムは庭に植えられた林檎の木から『デカいアップルケーキを焼く』と答え、教会での暮らしをスタートさせる。だが、どこかおかしい。立派に更生したはずのカリドは今でもガソリンスタンドを襲って金品を強奪しているようであり、グナーはいくら注意しても財布や携帯を盗むことをやめない。アダムはこうした現実をイヴァンに訴えるが、強引な解釈によって退けられてしまう。『根っからの悪党』を自称し、神の代わりにヒットラーという正義を信じるアダムは、イヴァンのこうした欺瞞をあらゆる手段を使って暴き立てようとする。ここに、問題を抱える妊婦サラ、教会と隣接する病院の医師コルベアが加わることにより、イヴァンのポジティブさの裏にある恐るべき秘密が明らかになっていく。一方、まるでケーキ作りを妨害するかのように、林檎の木はたびたびカラスや害虫による襲撃を受け、数々の啓示的な出来事がアダムのもとを訪れる。これにより、彼の信じる現実もまた変容せざるを得ない。かくして物語は、信仰と正義、妄想と現実、狂気と正常の境をダイナミックに往還しながら、予期せぬ笑いと暴力を伴って教会世界を支える核=イヴァンという症状に向かって開かれていく。果たしてアダムは無事にアップルケーキを焼くことができるのか?

 

 

魔法に満ちた特別な作品だ。この特別さの要因はおそらく、映画が物語化の機能を巡るドラマとして優れていると同時に、ありふれたヒューマンストーリーの枠を暴力的に逸脱していく点にある。実際、アダムズアップルはキリスト教の信仰を巡る卓越したドラマである。物語の鍵を握るイヴァンは『神はわたしの味方だ』と断言して憚らない聖職者だし、アダムの部屋に置かれた聖書は幾度もヨブ記のページを示して落下する。そもそも、原初の人類たるアダムがカラスや害虫に代表される暴力から知恵の実=林檎を守り、その成果をケーキとして焼く。という物語の大枠を暗示するタイトルからしてなにをかいわんや。しかし、ある意味でこうしたわかりやすい宗教的隠喩はブラフなのである。

 

 

それは、観客にとってだけでなく、アダムにとってもブラフとして働く。なぜなら、映画はアダムが教会に到着するところから始まるのであり、その場において無知である点で、アダムはわれわれとまったく同じ条件だからだ。従って、アダムがイヴァンに連れられて教会にやってきたように、われわれはここから、アダムに手を引かれつつ、おっかなびっくりイヴァンという謎に満ちた境界(教会)の内部にわけ入っていくことになる。物語が進行するにつれ、とっつきづらく暴力的なアダムが親しく思え、反対に、外面上紳士的にふるまうイヴァンの不可解さが際立って感じられてくるのはそのためだ。アダムズアップルの基底を成すのは、イヴァンという複雑な症状を巡る観察のドラマである。われわれはアダムとともに、教会に関わる人々の協力をあおぎつつ分析医としてこの現場に立ち合うだろう。

 

 

さっそく診察を開始しよう。

ほとんどの病気がそうであるように、ささいな違和感の積み重ねが症状を疑うきっかけとなる。違和感とは即ちねじれ(a→b')であり、曲がったことが大嫌いなリアリストアダムはねじれの存在を許容できない。あらゆる矢印をまっすぐにし、ただちに自分の信じる現実(a→a')の中に組みこまなければ安心できないのだ。彼にとってのねじれは、現実をありのままに見ようとしない宗教とそれを覆い隠す偽善を指すから、イヴァンについてこれらを暴こうとすればするほど、無意識において挫折した物語を肩代わりしてしまう。ねじれを正そうとするあまり、うっかり精神分析医の役割を演じてしまうわけだ。イヴァンの症状が複雑であること、アダムが分析医として未熟であること(そのため、言葉と論理の不足を暴力で補わざるを得ない)の双方が相まり、この治療においては意識関数のすべてのモデルが疑われることになるだろう。順に見て行こう。

 

 

・ねじれの発見(a→a' ⇒ a⇢b')

最初に、アダムがイヴァンのねじれを察知していく過程が描かれる。両者の相違は、この段階ではまだ偽善 vs 正義という表面的なレベルに留まっており、深層の物語は問題にならない。

ねじれ1、犯罪者更生の目的からして不真面目な『アップルケーキを焼く』目標を、イヴァンは喜んで受け入れる。アダムはとまどうが、前科者に寛大な態度を装う偽善と受け取る。

ねじれ2、説教中トイレに立った老人を執拗に責め立てるイヴァン。紳士的な態度の裏側にある傲慢を見て取り、偽善の疑いを強めるアダム。

ねじれ3、グナーに財布とケータイを盗まれカリドの上着に金を発見したアダムは、二人がちっとも更生していない現実を訴えるが、イヴァンは「自分の部屋と間違えたんだろう」「彼の貯金だろう」と強引に否定する。自らの指導不備を認めようとしない態度に苛立ちつつ、その強引さに少しずつ違和感を覚えはじめるアダム。ひょっとするとこのねじれは意図的に装われたもの=偽善ではなく、自然と浮かび上がってきたものなのではないだろうか·····かくして症状が出現する。

 

 

・ねじれから症状へ(a⤑b' ⇒ a⇢b'〜a→b')

望まぬ妊娠をした女性サラが教会を訪ねる。「脳性麻痺の子供が生まれてしまうかもしれない。生むべきか、生まざるべきか」サラの告白にアダムは真摯に耳を傾けるが、イヴァンはちぐはぐな受け答えを繰り返し、挙句クッキーを持ってくるようアダムに言いつける。涙ながらに窮状を訴えるサラの面前で、表情ひとつ変えずクッキーの数について“議論”するイヴァン。その後、取って付けたかのように「統計的に見て脳性麻痺の子供が生まれる確率は高くない。自分の息子も似た状況だったが、今では元気に成長している。安心して生みなさい」とアドバイスし、サラは一応安堵する。牧師としてあまりにも異様なこうした対応を目の当たりにしたアダムは、偽善の裏にある秘密の解明に乗り出す。

 

 

・診察の手引き(病院という外部)

アダム(とわれわれ)におけるイヴァン像の変容を助ける存在がコルベアである。教会と隣接する病院に勤務する医師である彼は、こころの医者である分析医に対置されるからだの医者であり、科学的合理性を信じて疑わぬ人物として描かれる。そのため、言葉と論理による分析が行き詰まり、暴力が生じたタイミングにきまって登場するのだ。教会は暴力の痕跡たるケガを通じて病院という外部に結ばれる。幾度も病院を訪れコルベアと会話を重ねるアダムと引き換えに、イヴァンがコルベアとほとんど身のある会話を交わさないことは象徴的だ。アダムに殴られたイヴァンが『病院に行ってくる』と言って外出するが、実際には行っていない事実が後に判明する。結論を先取りすれば、このくだりは、ケガを通じてさえ教会が病院に接続されない=自らの内部(妄想)を外部(現実)と繋ぎたくない、というイヴァンの無意識における抵抗を表している。理不尽な現実にさらされた宿主が傷つく危険性を察知した無意識が、物語を未了のままにとどめようとしているわけだ。ことあるごとに“議論”をふっかけるイヴァンの姿勢は、実は健全な議論をあらかじめ封殺する逆説から選択されたものなのだ。

 

 

・症状から狂気へ(a⤑b'〜a→b' ⇒ a→b')

オーブンでヤケドを負ったアダムは初めてコルベアの世話になる。「あいつは頭がおかしい」と毒づくアダムに、『確かに変わり者だが根は優しい男なんだ』とコルベアは言い、イヴァンの不幸な過去を明らかにする。彼によれば、イヴァンの息子は脳性麻痺で動けず、それを苦にした妻は自ら命を絶ったのだという。車中、アダムはこの“事実”をイヴァンに突き付けるが、「とんでもない話だ。息子は庭を走り回っているし、妻が死んだのは自殺ではなく不慮の事故だ」とまたしても否定される。しかし、後日連れてこられた息子は車椅子に乗っており、動くことはおろか話すことすらままならない様子。アダムがそれを指摘すると、イヴァンは「今日はインフルエンザで調子が悪い」とむちゃくちゃな言い訳をし、カリドとグナーは言葉を濁らせる。二人が既にイヴァンの症状を知っていたことがわかる。たまたまこの場面に出くわしたサラに「よくもあんな嘘がつけたわね!」となじられ、右耳から出血するイヴァン。ここにおいて暴力が初めての高まりを見せ、コルベアが現れる。アダムは彼から、イヴァンが脳に巨大な腫瘍を抱えていること、過去の不幸を受け入れられず自らに都合のいい妄想の世界を生きており、それを否定する出来事に会うと腫瘍が破裂して出血することを聞かされる。症状はついに狂気へと姿を変え、映画は隠された深層の領域に踏みこんでいく。

 

 

・診察の迷い(狂気か、本物の善か)

とはいえ、即断するにはまだ早い。診察には慎重な姿勢が求められる。ブッダの例からもわかる通り、純粋な狂気は極端な平等主義と見分けがつかない。イヴァンを支えるものが狂気だとしても、いや、そうであればあるほど、彼の偽善は本物の善だと言えるかもしれないのだ。こうした疑いにより、アダムの心は揺れ動く。議論の高まりからアダムに殴られてさえ、イヴァンは少しの怒りも見せず『病院に行ってくる』と平然と出て行く。ところが、瀕死の老人を見舞うシーンでコルベアがイヴァンの傷をからかうことから、彼がその傷を処置していない=本当は病院に行っていない(自分で手当てした?)事実が明らかになる。この不可解な行動の理由をどのように考えるべきか。暴力をふるったアダムをかばうための優しさと捉えることも、この時点では充分可能だろう。また、アダムが崇拝するヒットラーをイヴァンは『わたしは誰も否定しない』と受け入れ、今際の際にある老人に対しても優しい言葉をかける。その言動は相変わらずどこかピント外れだが、純粋な思いやりから発したものとも解釈できる。狂気か、完全な善か。イヴァンの姿をじっと見つめ、その都度考えこむ風のアダム。われわれにとっても見極めが難しいポイントだ。結局、コルベアから情報を得たアダムは、一連の不可解な言動を、他者への思いやりにではなく、自らの妄想を維持するご都合主義に由来するものと結論づける。だが、一瞬とはいえ固く閉ざされた彼のこころにためらいが生じたことはおそらく間違いない。であればこそアダムは、わずかでも情に傾きかけた自己を否定し去るため、躍起になってイヴァンの妄想を暴き立てるはめになるのだ。両者の正面対決は、いよいよ避けられないものとなる。

 

 

・荒療治(狂気の物語 vs 理不尽な現実)

イヴァンの信仰を正当化する根拠が妄想に過ぎないことを確信したアダムは、最終対決に挑む。この対決は、今や信仰vs正義という表層を脱し、イヴァンの妄想を担保する宗教とその物語を破壊する理不尽な現実との容赦なき衝突と化す。礼拝堂にかかった祭壇画の前で、イヴァンの罪を告発するアダム。「おまえの息子は脳性麻痺で動けないし、妻はそのショックで自殺した!おまえはヨブ記を読んでもいなければ、キリスト教の敬虔な信者でもない。都合の悪い現実から目をそらすために宗教を利用しているだけだ!こんな試練を与えたのは誰だ?悪魔ではなく神ではないのか?おまえの愛する神こそが、おまえをこんなひどい目にあわせたのだ!」ついに妄想の逃げ場を失ったイヴァンは、耳から血を流し倒れる。同時に、物語化としての宗教は過酷な現実の前に敗れ去り、狂気は正常に復調する·····かに思える。

 

 

・狂気と正常の交代劇(a→a'とa→b'の融和)

通常ならここでハッピーエンドだろう。だが、狂気から正常への回帰に終始する凡百のドラマと異なり、アダムズ・アップルが本領を発揮するのはここからなのだ。

時を同じくして、まるでアダムの目標を妨害するかのように、林檎の木はカラスや害虫による襲撃を受ける。やがて教会に雷(神鳴り)が落ち、言葉と論理を超えた奇跡が生じるに至って、アダムに一種の啓示がもたらされる。荒療治を経て、コルベアからイヴァンの余命がいくばくもないと聞かされた彼は、ついにアップルケーキを焼くことを決意する。一方、病院から帰ったイヴァンは、妄想を脱する代わりにいっさいの信仰を失ってしまう。ここは両者の立場が入れ替わる重大な転換点だ。イヴァンは妄想から現実へ、アダムは現実から妄想へ、いわばそれぞれが同時に世界観の移行を経験するわけだ。病院から教会へ戻る車中、それまではイヴァンが座っていた運転席にアダムが座り、イヴァンがかけるたびアダムがストップしていた信仰心溢れるナンバー(ビージーズのヒット曲「愛はきらめきの中に」のテイク・ザットによるカバー)を、他ならぬアダムがかけるに及ぶ。二人の立場が入れ替わったことを象徴する美しいシーンだ。けっして交わらなかったはずのa→a'とa→b'が少しずつ互いの境界を溶かしあいながら·····

 

 

・狂気から完全な狂気へ(a→b' ⇒ a→a'〜z')

ところが事態は美しいままでは終わらない。狂気の物語を失った世界に猛威を振るうのは、剥き出しになった危険な現実なのだ。

イヴァン不在の教会では異様な状況が出来している。グナーはますます酒に溺れ、かつてテニス選手であった栄光の過去にすがるかのように昔のユニフォームを引っ張り出す。カリドはまったく平静を失い、どこからか大量の銃火器をかき集めてきて落ち着きなくそれをぶっぱなす。一体どうしたというのだろう。妄想を克服したイヴァンがめでたく現実に復帰したというのに、これではまるで世界のタガが外れてしまったかのようではないか!ここで明らかになるのは、教会の秩序を支えていたのはイヴァンではなく、なによりもイヴァンの狂気であったという真実だ。なぜなら、そこに暮らす二人を繋ぎ止めていたものは牧師たるイヴァンへの忠誠心などではなく、ある重大な秘密=イヴァンの症状を共有しているという意識であったはずだからだ。そして、妄想と知りつつそれを暴き立てない挙動を通じて、いつのまにかグナーとカリドもこの症状に参加し、症状の一部となっていたのだ。現実への回帰という一見肯定的な出来事が場に混乱をもたらすのは、イヴァンの症状が皆の症状をつなぎ止める物語の核になっていたからにほかならない。このような症状の核、無理に解きほぐそうとするとすべてのひもがスルリとほどけてしまう無意識の結び目を、フロイト派の精神分析学者ラカンは症候(サントーム)と名づけた。症候が失われた世界に現出するのは、あの恐るべき渾沌、いっさいの秩序が失われた完全な狂気a→a'〜z'である。だからこそ、イヴァンの物語が失われつつあることを察知したグナーとカリドは、即席の症状を形成することでただちにこの穴を塞がねばならない。二人の奇行が、テニス選手時代のユニフォーム、強盗時に使用していた銃火器、という無意識においてそれぞれにもっとも愛着した形象を伴って現われるのはそのためである。

 

 

・完全な狂気から奇跡の現出へ(境界の消失)

したがって、イヴァンが復帰しても事態はまるで好転しない。彼の存在はその症候の不在を強調するばかりだからだ。かくしてあやういバランスで保たれていた世界は崩れ去り、ますますの混乱と暴力が高まっていく。その暴力が頂点に達した瞬間、事件は起こる。

アダムが所属していたネオナチグループが教会を襲撃し、もみあいになった末にイヴァンが銃で撃たれてしまうのだ(これは、アダムが未了のまま追い出した過去=無意識による報復とも取れる)。至近距離から銃弾を打ちこまれ、脳天をふっ飛ばされたのだから助かるわけがない。「現代の医療技術では、彼の命は救えない。医者であるこのわたしが保証する」とコルベア。ところがなんと、イヴァンは奇跡的な生還を遂げるのである!おまけに、弾がうまい具合に腫瘍を吹っ飛ばしてくれたおかげで、都合よく余命宣告までが取り消されるに至る。科学的にありえない事態に直面したコルベアは「こんな非科学的な場所にはいられない!」とばかり病院を去る。彼の退場は、からだの医学に基づく診断が役目を終えたこと、病院という外部が消失し(したがって教会という内部も消失し)、閉ざされた世界が大きく開かれた事実をわれわれに伝える。一方、さまざまな困難を乗り越え見事アップルケーキを焼き上げたアダムは、病院の中庭にイヴァンを見舞う。カラスや害虫に蝕まれ、もはや使用が絶望的かに思われた林檎の実は、グナーの盗み癖によって奇跡的な一個が確保されていたのだ。くつろいだ様子で、ともにケーキを食べるアダムとイヴァン。こうして二人の患者と分析医は、手を繋いで新たなa→a'のなかに帰還するのだ。

 

 

・診察の終わり(a→a'〜z' ⇒ 一周回って、新しいa→a')

ここに至って、映画は唐突に穏やかなムードに包まれる。カリドは決意して故郷へ帰っていき、かねてから惹かれあっていたグナーとサラと関係を深め、互いにこころの安定を得る。ラストは、数年後、すっかり髪が伸び、どうやら教会に住み着いたらしいアダムが、イヴァンとともに新たな囚人を迎えに行く爽やかなシーンで終わる。冒頭のくだりが映像的に反復されるわけだが、a→a'以外のさまざまな世界をアダムが経験し、それを受け入れた今、このシーンが以前とはまるで異なったニュアンスを持つことは明らかだろう。

 

 

ハッピーエンド。

治療困難に思われた複雑なイヴァンの症状は、ようやくここに完治した。アダムとわれわれが手探りで試みた精神分析は、どうやら成功に終わったらしい。全体の流れをストーリー化してみよう。
日常のささいな違和感が積み重なることによって、無意識において挫折した物語による訴え=症状としてのイヴァンが立ち上がる。症状はやがてシステムをのっとり狂気に至るが、それを駆動する妄想と正常な物語化を阻む理不尽な現実とは、対決の痛みを通じて徐々に融和していく。一方、イヴァンの症状はその境界(教会)内に暮らすグナーとカリドを繋ぐ無意識の絆=症候ともなっているため、ほつれた結び目から物語化不能の危険な現実=完全な狂気が姿を現す。言葉と論理が追い出され、恐るべき混乱と暴力に支配されていく教会。しかし、その暴力が頂点に達した瞬間、ある奇跡が起きる。これにより、世界は狂気に呑みこまれる寸前で踏み止まり、多様なストーリーを許容する豊かな現実のなかに帰還する。
精神分析における治療は、時に一方通行ではありえない。症状に関わるすべての人間によって、とりわけ患者と分析医の意図せぬ共謀によって、いかようにも推移していくのだ。そのため、イヴァンが現実へ回帰する物語はアダムの現実が変容していく物語でもある。a→a' ⇒ a⤑b' ⇒ a⤑b'〜a→b' ⇒ a→b' ⇒ a→a'〜z' と、すべての意識関数を順に経巡り、大きく回り道する経験を経て、ようやく二人はa→a'の世界にたどり着いたわけだ。

 

 

劇中の宗教的暗示がある意味で治療を阻む障害であったことは明らかだろう。キリスト教の信仰、ヨブ記に描かれる過酷な試練、林檎の木が象徴する原罪といったモチーフは、物語の進行を助け、その枠組みを補強する魅力的な道具立てではあっても、けっして本質を成すものではない。なぜなら、物語の構造は、なによりも精神分析的なドラマの力学としてわれわれの前に提示されたのだから。

 


しかし、映画が終わってもなお、観客のこころにはすがすがしさとともに一種のしこりのようなものが残るに違いない。果たしてこれでいいのだろうか、と。なるほど美しい幕切れには違いないが、なんだかうまくだまされたような気もする·····

こうした引っかかりはおそらく、イヴァンが撃たれた瞬間たちまち平和が訪れる唐突な展開と無縁ではないだろう。事実、イヴァンの生還という奇跡は、暴力の極限的な高まりによって導かれている。あの爽快なハッピーエンドは、アダムの正義、イヴァンの宗教、コルベアの科学、すべての物語化が圧倒的な狂気に敗れ去った時点にもたらされたものなのだ。つまり、ある意味でアダムズ・アップルは、人間存在による不断の努力が根源的な狂気の前に屈服する事態を承認している=狂気の存在を無自覚に肯定しているように読めてしまうのだ。このことをどう解釈すべきだろう?

 

 

だが、実を言えば、人間を救済する理論としての精神分析学が回帰してくるのは、まさにこうした局限、あらゆる物語化(宗教さえも!)がご破算になった地点においてなのだ。

言葉と論理によって無意識をストーリー化していく試みにおいて、いかなる物語にも組みこみ得ない大いなる裂傷の存在が明らかになる。つまりこれこそが症候(サントーム)であるわけだが、ラカンによれば、精神分析治療が目指す最終的なゴールとは、その傷から生じた穴に無理やり言葉と論理を当てはめることではない。反対に、その穴が空っぽであること、もともと空っぽであったことをありのままに受け入れることなのだ。一見脈絡なく思える展開、イヴァンの腫瘍がふっ飛ばされた途端に平和が訪れる唐突さは、実は症候のメカニズムと関連している。映画後半、アダムがコルベアの助力を得てイヴァンの症状を解明する過程において、症候(サントーム)は、こころの医学によってもからだの医学によっても除去し得ない不気味な脳の腫瘍となって立ちはだかる。これは、強引に物語化しようとすれば命に関わりかねない、無意識の危険な断片を表す。自らの危険性を知るがゆえに、このパズルのピースはあえてバラバラのままでいる道を選択したわけだ。ところが、アダムとイヴァンの直接対決によって、症候が属するバラバラなピースの世界=完全な狂気の世界は、無意識のほつれ目を通って徐々に“現実”の内部へと流れこみ始める。かくして暴力と混乱が漏れ出すわけだが、しかしこの危険な流入は、その最後に一発の銃弾を“現実”のなかに招き入れることによって、イヴァンの脳内から見事症候を弾き出すに至るのだ。したがって、あの事件はイヴァンという症候の“喪失”を意味するわけではない。そうではなく、症候は“空っぽ”になることで生き延びたのである。なぜなら、腫瘍を吹っ飛ばされた脳の部分は空白になるが、それでいてその空白はそこにあったなにかを主張し続けるのだから。つまり、症候は失われたのではなく、狂気を受け入れた結果、空白の形で再獲得されたわけだ。このように考えてみてはじめて、例の不可解な奇跡の所以が理解できるだろう。狂気に対する理性の敗北を描くかに思われたあの奇跡は、空っぽになった症候がもはや急迫の危険性を失った=イヴァンの狂気が“現実”のなかに正しく位置づけされた、という栄光を表すものだったのだ。混迷した展開の最後にハッピーエンドが招き入れられるのはそういうわけである。そして、イヴァンのように、治療不可能な狂気をオリジナルな個性として受け入れる姿勢こそ、ラカンの言う「症候とつきあい、ともに生きていく」ということなのだ。アダムズ・アップルが特別な理由は、精神分析治療において最も重要でありながら取り扱い困難な、症候のこうした段階を臆せず描いたところにあると言えるだろう。

 

 

人間は、正常を突っ切り現実に触れる性急さによって生の豊かさを享受するわけではない。反対に、少しずつ自らを狂気へ開いていく賭けによって、己の人生をよりよいものとすることができるのだ。

ありのままの現実を求めて手を伸ばす直接性は、裸のまま狂気に向かい合う危険性をも意味する。したがって、面倒でも、われわれはルートを再考し、多様な物語に思い馳せながら、じっくりと現実の周囲を散歩してみなければならない。そんな遠回りの果てに焼き上げられた、例のアップルケーキがなにを意味するかはもはや明らかだろう。アダムが作り出したケーキとは、イヴァンの、そしてかつて彼の教会(境界)に暮らしたすべての人々のよりどころとなる、オリジナルな狂気だったのだ。林檎の実の最後の一個、ケーキ作りに使用された奇跡的なその一個が、盗み癖というグナー固有の症状によってもたらされた事実を思い出そう。それは、この世界を覆う根源的な狂気=理不尽な現実をめぐる滑稽な道のりにおいて獲得されたものであるからこそ、新たな生活を導く輝かしい指針となるのだ。あのケーキの味と匂いを想像する時、われわれもまた、それぞれの狂気に向かって開かれている。

 

 

 

 

 

《 調理を終えて 》

 

 

下ごしらえ・調理に当たって、直接的な引用や参照を行った箇所はないが、以下の著作から少なからぬヒントを得た。感謝の意を表したい。

 

フロイト精神分析学入門』(懸田克躬訳)、中公文庫、1973年

ジャック・ラカンテレヴィジオン』(藤田博史、片山文保訳)、講談社学術文庫、2016年

・ポール=ロラン・アスン『ラカン』(西尾彰泰訳)、文庫クセジュ、2013年

スラヴォイ・ジジェクイデオロギーの崇高な対象』(鈴木晶訳)、河出文庫、2015年

鈴木晶『世界一わかりやすいフロイト教授の精神分析の本』、三笠書房、2002年

斎藤環『生き延びるためのラカン』、ちくま文庫、2012年

宮台真司『〈世界〉はそもそもデタラメである』、2008年

・アダムズ・アップルLLP制作・編集『アダムズ・アップル公式パンフレット』、2019年

 

また、苫米地英人大先生のYoutube上での発言が霊感源となった旨も合わせて記しておく(爆)

なお、記述に伴う事実誤認等の責任はすべて脱輪に期せられる。よろしくご教示頂きたい。

最後にスペシャルサンクスを、調理中ヘッドホンから幾度となく再生されたmassive attackの名曲「safe from harm」の歌詞の精神分析的な誤読を通じ、母へと捧げる。

“You can free the world, you can free my mind(=mama), just as long as my baby safe from harm tonight”

 

 

 

2020/01/25  調理責任者:脱輪