さらしもの日記

・それなんてえろげ?

上方落語の古典に“野晒し”という演目がある。
ある男が墓参りに行った先で野晒しになったままのしゃれこうべを見つける。その様子を気の毒に思った彼、長年の風雨に苛まれた汚れを洗い落とし、すっかり綺麗にした後供養してやった。
するとその晩、枕元に一人の女が現れる。見れば大層な美人で、かそけき光を放ちながら言うには
「わたくしは今朝方あなた様に供養していただいたしゃれこうべでございます。成仏果たせず途方に暮れていた折、あなた様のお慈悲によりこの通り成仏かないました。つきましては、ささやかながらお礼をいたしたく参った次第でございます」
めくるめく夜が明けるまで、天にも昇る心地を男は味わったという。
さて、この話を伝え聞いた友人、すけべ心から早速墓参りに出かけ、野晒しのしゃれこうべを丹念に磨き上げた。待つうち次第に夜も更け、鬼火がポォ、ぼやがパー。きたぞきたぞ・・・はやる気持ちを抑えつつ布団から顔を上げれば、そこには身の丈六尺ほどもある大男が。
「拙者、お主に供養していただいたしゃれこうべにござる。ついてはかたじけなくも礼を返したく・・・」


野晒しになった僕の携帯電話(しかしiphoneは持ち運べるパソコンとしては不充分、ケータイとしては利口が勝ちすぎ不便だ)を発見、救出してくれたおじさまの寝所に、今夜情報の女神は現れるだろうか。
テクニシャンであることを望む。






・美学者の憂鬱

一人だけだろうと二人きりだろうとその他大勢の中だろうと、映画は静かに見たい。
たったそれだけのことがなぜ理解されないのか。ほとんど泣きべその態。
あなたのことを嫌いになりたくないから怒りたくない、怒りたくないから警告を発するので、その警告は断じて怒りや嫌悪から出るのではないのだ。むしろそれらを裏返すべく苦しまぎれで試みるものなのに、伝わらず、ありふれた誤解に基づく反発を招き、結局は最も避けたかった身ぶりを実行せざるを得ない。
いったいこれはなんなのか。
皮肉と言うにはユーモアに欠け、悲劇と呼ぶには深刻さが足りない。なぜなら、あらかじめ埋めることが不可能な断絶には、ほとんどあっけらかんとした風情すら漂うのだから!





・羽音

たしかに君が言うように僕らの関係は、恋人同士と名付けるにはあまりにも。
あまりにも、なんなのだろう。
今日一日ずっと考えていた。
言葉は常にある。空中に漂うそれらをむんずと掴んで投げつけるにせよ、そっと包んで両手で差し出すにせよ、その挙動の寸前には決まってあるひとつの気配が訪れるはずだ。
沈黙。ためらい。震え。嘔吐。
どのように言い換えてもあの戦慄には遠く及ばないが、いずれ言葉の前で立ちすくんだ経験のない者を僕は信じない。
さいわい君は沈黙を含まない言葉の虚しさを心得ているばかりか、ひとつの言葉が選ばれることは同時に他のすべての言葉が選ばれない残酷を承服することだと知ってもいる。そのため勇敢にも、言葉を発する瞬間の恐るべきためらいを引き受け、その震えを僕に手渡そうとするのだ。
僕はそんな君の勇敢さに学び、また怯えてもいる。君があらゆる危険を顧みずようやく手にした沈黙の息づかいを、この僕は十分感じ取れているだろうかと。