「男女の友情は成立するのか」問題に今年中に決着をつけるから、2014年以降、この話題はなしの方向で

男と女の間に友情なんか成立しない、とだれかが言う時、彼は二つの経歴を見せびらかしたがっている。一つは、女性経験が豊富であること。いま一つは、その経験の多くを成功に導いてきたということ。
前者については説明するまでもないだろう。考察を要するのは後者の方だ。ここでの“成功”とは恋仲になることを指し、望むと望まざるとに関わらず、異性と抜き差しならぬ関係に陥った経験の多さをもとに、彼は男女の友情を否定するのである。彼が若く血気溢れる青年である場合、この台詞は自信に満ちた演技的な調子で発されるに違いない。他方、酸いも甘いも噛み分けた中年男性の場合、同じ台詞は諦念まじりの悲哀とともに吐き出されるだろう。しかしいずれにせよ、言葉の裏に彼がほのめかそうとする事実はひとつのものだ。
「俺、モテるんだぜ!」



発された言葉をそのまま信じるなら、なるほど彼はモテるのだろう。多くの女性と深い仲になった経験は、彼が友情などという悠長なものを差し向けられるほど魅力に欠ける男ではなかったことを示している。彼に惹かれた女性は寄り道せずまっすぐゴールを目指す必要があったのだ。魅力とは、実直なドライバーに冒険的なショートカットを命じる指令である。ひとたびこの指令を聞き入れた者は、目的を阻む障害を取り除きつつ先を急ぐはめになる。恋は盲目とシェークスピアは言ったが、他のものがぼんやり映るのは、恋の対象が輝いて見えるあまりなのである。
友人のままで関係が終わってしまう落とし穴を見事飛び越え、彼は多くの女性の恋人になった。だが、こうも言えないだろうか。彼は多くの女性の恋人になる代わり、同じ数の女性の友人になり損ねたのだと。本論において、“損ねる”という表現の可能性を我々は最大限に掘り起こすつもりだ。この言葉は不思議な輝きを帯びて幾度も登場するだろう。いったい、あるひとつのものになりおおせるということは、他のすべてのものになり損ねることではないのか?
そこで大胆にも我々は次のように仮定してみる。他のあらゆる関係になり損ねることによってのみ、人と人は恋人同士になるのだと。



これにはただちに反論がなされるだろう。友人から恋人へ、同僚から恋人へ、先生と生徒から恋人へ、といったように、既にある関係が発展的に恋愛へ移行するケースが多く見られるではないか。少なくともこうした場合においては、なにかになり損ねることによって彼と彼女が恋人同士になったなどということはありえない、と。
なるほどもっともな反論である。あまりにもっともであるため、我々としては卑劣な手段をもって応じるほかない。
「その件につきましては一旦保留にさせてください。続きをどうぞーー」



先日、友人と話していた折、ある男女の関係に興味深い変化があった例を耳にした。男の方をコーヒー、女の方をシガレット、と仮に命名しよう。コーヒーとシガレットは大学時代からの友人で、しょっちゅう一緒につるんでいた。時には互いの家に寝泊まりすることまであったほどだが、深い仲に発展する事態は一度もなかったという。
「彼らを見ていると、男女の友情ってやつを信じていい気がしたものさ。傍目にも羨ましい関係だったからね。ところが・・・」
コーヒーとシガレットは、大学を卒業して二年後、とあるきっかけで再会し、それを機に交際を始めたのだという。そして先頃めでたく婚約した。友人は、二人から送られてきた結婚式の招待状によって、初めて事の次第を知ったのである。
「コーヒーとシガレットには悪いが、素直に祝福できない苦みを感じたのは事実さ。結局、男女の間に友情は成立しないのかとね。どうやら、僕もまだまだ幻想を捨てきれないらしい」
やれやれとばかり両手を広げてみせ、友人は話を打ち切った。いつもなら苦笑をもって応じられるはずの話題に、しかし、この時我々は奇妙な違和感を覚えずにはいられなかった。
コーヒーとシガレットが友人だった期間は少なくとも四年、恋人になってからはまだほんの一年しか経っていない。単純に言って、友人期間は恋人期間の四倍であるはずだ。にも関わらず、我々は後者の事実の方を遥かに重視するのである。
コーヒーとシガレットにおける数字をより極端なもの、例えば友人だった期間を三十年、恋人になってからを三日というように置き換えてみても、事態はいささかも変化しないに違いない。むしろこうしたエピソードは、「三十年も頑なに友情を守り続けた二人にあってさえも“そう”なのか・・・まったく、男女間に友情など存在しないのか!」という嘆きを引き出すに十分なのだ。
いったい、これほどの理不尽、確固たる継続状態が不透明な瞬間の事実によって覆されるなどということがあり得ようか?
友人の発言が明らかにしたもの、我々の違和感の正体とは、恋愛が成立した途端、それまでの関係を一挙に書き換えてしまうある“権力”の存在だったのだ。
今ここに「男女の友情は成立しない」と主張する者がいたとしよう。彼はいつでも勝利することができる。なぜなら、予想される反論のすべてをただひとつの事柄をもって覆すことが可能だからだ。「男女の友情は成立する」派がいかに強力な例証を持ち出そうが、未来のどこかの時点において二人が深い仲になった瞬間、彼はほとんど自動的に議論の勝者となるのである。そればかりではない、たとえ友情が百年続こうとも、明日にもそれが愛情に変ずる可能性が残され続けるために、彼が明確な敗北を喫することはあり得ないのだ。



キリスト教的な恋愛観が一般化して以降、数百年の長きに渡って人々の頭を悩ませ、もはや永遠に決着不可能かに思われた大問題。
「男女の友情は成立するか?」
だが、今や我々はこの問題にあっさりと片をつけてしまった。断言しよう。これまで戦わされてきた喧々諤々の議論はまったくの無駄であった。なぜなら、問いの立て方がそもそも間違っていたからである。
実際、この問題について議論することは、ルールを知らないゲームに無理やり付き合わされる屈辱と似ている。このゲームにあってはいつも必ず「成立しない」派が勝利することになっている。彼らに与えられた勝利条件は「ある一組の男女が恋仲になる」というたやすいものなのだが、それか否か、まったく腹立たしいことに、「恋仲になる可能性が残されている」が二次的な勝利条件になってさえいるのである。一方「成立する」派の勝利条件はというと、これが見当たらない。皆無なのである。いったいどのような事実を挙げれば勝ちになるのか、それすらわからない状況で勝負させられているのだ。おまけに、敵はどんなに些細な手がかりからでも自在に勝利を手繰り寄せることができる。
おわかりだろうか?これは実に無益な戦いなのである。「成立する」派はどうあっても勝利することができない。数百年もの間、彼らはだまされてきたのだ!
だが、何に?



幸か不幸か、我々は公正を美徳と信じるほど愚かな人間ではないが、それでもやはり、公正であること自体の価値を疑うものではない。「成立しない」派の無自覚な傲慢を槍玉に上げた本論は、「成立する」派の怠惰な白痴ぶりにも矛先を向けずにはいられまい。
先のゲームにおいて、「一組の男女が恋仲になる」が「しない」派の勝利条件として成立するならば、なぜ「一組の男女が友人同士になる」が「する」派の勝利条件になり得ないのか?この条件がひとたび承認されれば、歴史上のゲームスコアはことごとくひっくり返るに違いないのだ。悔し涙を呑んできた「する」派に代わって、泣き寝入りするのは「しない」派の方なのである。
我々は今一度コーヒーとシガレットの例に立ち返る必要がある。その後の成り行きを教えよう。情熱的な恋路の果てにめでたく結ばれた二人は、 小さな誤解の種から大げんかを咲かせ、なんとわずか四ヶ月で離婚してしまったのだ。かくも移ろいやすき人間の情!
しかしこれほどの劇的な事態に接しても、「しない」派の権威は微塵も揺らがないに違いない。彼らは勝ち誇ったように言うのだ。
「ほらね、やはり男女の友情などというものは存在しないのさ」
うっかりすると、「する」派もこの自信ありげな調子に吊りこまれてしまうのだが、だまされてはいけない。
友人関係が四年継続し、恋愛に変じて一年四ヶ月後に破綻したのであれば、コーヒーとシガレットに取りふさわしかったのは、むしろ友人としての関係性だったと言えるのではないだろうか?幸福な二人を引き裂いたものは友情ではなく愛情だったのではないか?仮に愛情とともに友情もまた潰えたとしても、全き関係を破壊し去ったものは愛情であり、間違っても友情の方ではないのだ。
賢明な読者はお気づきだろう。蜃気楼のようにたなびいていた「する」派の勝利条件は、実はここに隠れていたのだ。彼は快哉を叫ぶべきだった。
「見たことか!恋愛などといういやらしい罠に足を取られたからこそ、祝福された二人の関係は崩れ去ったのだ。男女の間に恋愛など成立しない。成立するのはただ友情のみなのだ!」
しかし現実はこれとはまったく逆である。「する」派は勝ち目のないゲームに奇跡的に勝利するチャンスをみすみす逃し、「男と女ってやつはほんとうに・・・」と溜息をつくに留まるのだ。なんたる体たらく!



とはいえ、これ以上「する」派の怠慢を責め立てるわけにもいくまい。彼がまんまと丸め込まれてしまうのは、友情と恋愛とを隔てる権力の存在に思い至らないためなのだ。
では、いったいなぜ、こと恋愛だけが権力を持ち得るのだろう?
それは、あらゆる関係の中でほとんど唯一、恋愛のみが自由意思に基づく契約によって成立する関係だからである。翻って言えば、友情は曖昧な関係なのだ。
一般に、人と人とが友人同士になるためにはいかなる種類の儀式も要しないのに対し、一組の男女が恋人同士になるに当たっては、告白という儀式が執り行われねばならないとされている。「あなたが好きです」とある者が言う時、彼は後ろ手に一枚の契約書を携えている。「わたしも好きです」と彼女がこれに返すなら、秘密の契約書は無事空白を満たすことができるだろう。「浮気しません」というサインをもって。
契約という言葉はもとをただせば法律用語であり、法とは権力の具体的な作用にほかならない。



ある日突然、「Fという姓を持つものは例外なく皆極刑に処すべし」という法案が可決されたとする。こうした事態に接し、まず最初に出来する感情は戸惑いと恐怖であろう。だが、戸惑いのうちに周囲がF氏を擁護できる期間はわずかに過ぎない。法が執行され、一人また一人と断頭台の露と消えていく友人達を前に、人々の思考は麻痺し、戸惑いは無関心へ、恐怖は憎悪へと姿を変えていく。ついこの間まで平穏無事に日々を送っていた全国のF氏は、たちまち白眼視され、迫害を受け、弓もて追われるはめになるだろう。本来理性の徒であった人々を凶賊に変える論理とはどのようなものだろう?彼らは口を揃えて言うに違いない。
「Fは追われて当然だ。なぜなら、Fという姓を持つ者は本質的に皆悪なのだから」
この法案が可決されるまで、Fという姓が善か悪かなど、話題に上ることすらなかったはずだ。しかしひとたび法が効力を発し始めるや、F氏の生涯は悪なるものとして書き換えられてしまう。
以上からして、権力はふたつの性格を有する。曖昧なものに明確な輪郭を与える性格。さらには、あたかもそのものが最初からそうした輪郭を備えていたかのごとく錯覚させる性格。
厄介なことには、権力という蚊は透明な姿をしている。この蚊はいつどこへでも自由に飛んでいくことができるが、人々がその姿を捉えるのは、やっと噛まれた痒みを通じてなのである。ものの本によれば、蚊という生物は平均して三分も人間の体に鎮座ましましているという。我々が愚かにもそれに気づかないのは、血液を吸引されると同時に別の管から麻痺毒を流し込まれているからなのだ。権力から網目状に伸びる管、法もまた同じ種類の毒をもっているため、最悪の場合、我々は噛まれたことにすら気がつかない。



「法」を「恋愛」に置き換えてみれば、恋が友情を塗り替えてしまう仕組みがたちどころに理解されるだろう。そう、あわれなF氏の正体とはFRIENDSHIP、友情なのだ!
もっとも、法が国家との間で個人が取り結ぶ半ば強制的な契約であるのに対し、恋愛は個人間に成り立つ自主的な契約である点で重大な差異を持つ。法がジャイアンなら、恋愛はその威を借るスネ夫であり、物語の主人公のび太は読者なのである。つまり、我々はこの世界のドラえもんになろうというわけなのだ!
だが、関係の樹に実をつけた恋が熟しついに結婚という果実を落とす時、恋愛はスネ夫であることをやめ、力づくでジャイアンの座を奪い取ろうとするだろう。今や恋愛は法との共犯関係を隠そうとしない。淡い蜜のインクで記された「浮気しません」というサインは、いかなる魔術によってか、くっきりとその姿を浮かび上がらせ、純粋に二人だけの問題であったはずの浮気は、“不倫”と改称されることで法の監視下に置かれる。
結婚とは、甘やかな秘密に他人が土足で上がりこむ無礼を承認する儀式であり、このような寛容さこそ「社会的責任」と呼ばれるものの正体にほかならない。なにを隠そう、真っ先に二人の前に登場する他人、我が物顔で愛を引き裂く野暮天とは、その愛の結晶たる赤ん坊なのだから!



告白の儀式がつつがなく執り行われ、恋愛が効力を発揮するや、曖昧だった友情は確たる輪郭を備え始める。
我々はここでひとつの真理に思い至らざるを得ない。恋人になりおおせる結果から遡って、その準備期間として友情が捉え直されるなら、契約成立以前の友情とは、即ち、恋人になり損ね続けている状態のことではないだろうか?愛情の挫折と失敗の集積としてのみ、我々は友情を捉えているのではないか?



かくして本論は二つの成果を手にした。
一つは、「男女の友情は成立するか?」という議論における論理的欠陥を解き明かしたこと。いま一つは、友情と恋愛との間に横たわる権力差を明らかにし、恋愛のなり損ねとしてのみ男女の友情が捉えられている実態を暴いたこと。
しかし、これだけでは読者の不満は解消されないに違いない。「男女の友情は成立するか?」という議論の不成立を証明しておきながら、その実、「男女の友情は成立するか?」という疑問そのものには、我々は少しも答えていないからだ。
この大問題を検討することによってのみ、本論は真に読者の期待に添うことができるように思われる。だが、大変遺憾ながら、この問いに対する解答は「成立するといえばいえるが、今のところなんともいえない」となるほかない。
我々は普段「恋人になり損ねる瞬間の積み重ね」として友情を捉えている。こうした認識に基づく友情は当たり前に存在するだろう。ところが、読者が期待している友情はこれとは異なる種類のものなのだ。先の友情を恋愛の従属物、“卑なる友情”とするなら、求められているものは恋愛から独立した純粋概念、“聖なる友情”の方なのである。しかし、“聖なる友情”とはいったいどんなものだろう?また、所詮「恋愛のできそこない」としか友情を捉えられない者が贅沢にもそれを望むのはなぜなのだろう?



これらの疑問に答えることは実のところたやすいが、我々としてはいささか気が進まない。とはいえ、読者にあっては契約うんぬんといった小難しい説明よりこちらの方が遥かに身近な話題であるには違いないから、不承不承、我々は俗悪な言葉の数々を唇に乗せよう。
身も蓋もない話のはじまりはじまりーー



友人と恋人とを分けるものは一般的に言って性交渉の有無である。「恋人になり損ねる」は詰まるところ「セックスしそびれる」であり、このことがある意味で困難だと思われているのは、普通、男女が“そういう状況”になった暁には“そうなる”ものであって、避けることが難しい、もっと言えば奇特なことだと信じ込まれているからである。反対に、恋人になりおおせることの困難は、“そういう状況”が出来する可能性の低さに存している。
おわかりだろう。恋愛と友情という対立がもっぱら異性間に限って話題されるのは、背後に性の問題を隠し持っているからなのだ。
もちろん我々は同性間の恋愛を否定するものでもなければ、ホモ的な関係において本論が有効たり得ないと考えるものでもない。これについてはしかし、現実の恋愛におけるほとんどの場合、ホモはヘテロのコスプレであると示唆するに留めよう。



同じひとつの友情を、一方では愛情の失敗例として貶め、他方ではそれを凌駕する至上概念として崇め奉る。男女の友情を問う者が自らのこうした矛盾に気づいていないため、応じる我々としても煮え切らない態度を取らざるを得ないのだ。
しかしながら、両極端に思える二つの認識は、実は同じ泉から湧き出たものなのである。前者は「セックスしそびれ」のだらしなさから友情を断罪し、後者は「セックス回避」の奇跡をもってこれを称揚するのだが、いずれにせよ、「男女の友情は成立するか?」という命題は、汲めども尽きぬ性の泉の周囲をさまようばかりなのだ。いったい、真に微妙な味わいを知るためには、泉に手を差し伸べ、その水を口に含んでみる以外方法がないではないか!



もっとも、我々とてこの泉の深遠なることを知らぬものではないから、同情の余地は残されている。そもそも、少し考えればすぐに気がつくほど巨大な矛盾を孕んだ「男女の友情は成立するか?」という問いかけが決して絶えないのはなぜなのか?
誰もが思い悩んでいるからである。男女の友情が持続しがたいものであることを知りながらも、それを求める幻想が潰えないためである。その苦痛が、困難が、絶望的状況の中で光を求める声がそのまま「男女に友情は成立するか?」という問いを発さしめてきたのだ。もし仮に矛盾に気づいていたにせよ、目をつぶらなければならないほど、彼は切羽詰まっていたのだ。それはそのまま人類の苦悩の歴史であり、言うまでもなく、この苦悩は性的な問題と切り離すことができない。
だが、本論がこの大問題を検討する任を免れるというのは、個々の具体的な男女関係を超えて、より普遍的な戦略を提起しようというからである。我々が今から行う作業は、「する」派が置かれる逆境を回復するのみならず、「しない」派にも大きな勇気を与えるに違いない。なぜなら、本音のところでは彼らとて「男女の友情は成立してほしい」と願っているに違いないからだ。いったい、「男女の友情は断じて成立すべきでない」などという意見を耳にしたことがあろうか?
彼が哀れにも「しない」派に属することになったのは、種々の困難に遭い、「する」と 断言するに足る希望をすり減らしてきたからではないのか?実際、「する」派と「しない」派にイデオロギー的な相違があるようには見えない。両者はただ、理想と現実、期待と困難の総量によって振り分けられてしまったに過ぎないのだ。




要するに、「する」派も「しない」派も、「してほしい」派である点においてさしたる違いはない。議論が不成立に終わるからくりも今や明らかだろう。対立するかに見える両者が実は同じ勝利を目指していたというのだから!
誰もが男女の友情が成立することを望んでいることが判明した。よろしい。ならば我々がその願いを、人類の悲願を叶えてしんぜよう。
愛情のなり損ねによって友情が実現されるならば、意識的にこれを行うことも可能なのではないだろうか?即ち、戦略的に恋人になりそこねる方法によって。



新たな作戦を提示するに当たって、ひとまず現実の友人関係を望見してみよう。それらはどのような「なり損ね」によって恋愛から遠ざかっているのか?
もっとも強力でありふれた「なり損ね」は、双方ともが好みのタイプでない場合に発現する。友情を向けるには適当だが、愛情を抱くには十分でない。このような相手と友情が成立する可能性は極めて高い。我々はこれを「条件的なり損ね」と名付けよう。
無論、この“条件”には様々なバリエーションが存在する。副次的な例として「どちらか、あるいは双方に既に恋人がいる」が挙げられるが、ひとたび恋の炎に焼かれればコップ一杯の水でこれを消し去ることは不可能だから、あくまで副次的なものに留まる。
子供同士の場合も考えられよう。これは先述した性の問題が顕在化していないからこそ成り立つ友情であり、時間という限定条件に深く関わっている。その例として、我々は「小学校までは一緒に登校していたのに、中学に上がった途端口も聞かなくなった異性」の思い出を喚起しておこう。
細かい分類は他にいくらも可能だろうが、いずれにせよ、これらはなんらかの条件に基づき偶然に成立してしまった関係にほかならない。
対して、我々がここに付け加えるのは、極めて意識的な方法、「戦略的なり損ね」のバリエーションである。
うっかり恋人になってしまいかねない好機を巧妙に、相手にそれと知られないままことごとく不意にし、あらゆる成就の予感を未然に打ち砕く。これこそが「戦略的なり損ね」のモットーである。
ここで重要なのは、「男女の友情は愛情より下位」だという差別意識を捨て去ることだ。友情が愛情より手中におさめづらいものであるからこそ、我々は苦悩し続けているのではなかったか?両者が対等な地位を獲得する時、「損ねる」という言葉は新たな輝きを発しはじめるだろう。



「損ねる」という輝かしい方法を逆向きに適用することによって、本文はまた画期的な恋愛マニュアルにも姿を変える。
戦略的に恋人になり損ねることによって友人になることが可能なら、戦略的に友人になり損ねることによって恋人になることも可能ではないだろうか?つまり、恐れ多くも我々は恋愛を友情のなり損ねとして捉えようというのである。
一般に夢見られている恋愛が、一目で惹かれあい恋に落ちる、といったような運命的なものであることは論を俟たない。しかし、運命というのは受動的なものだ。ある男女が恋に落ちる運命だったとして、それはつまり、他の関係に至る可能性があらかじめ取り除かれていたということではないだろうか?運命的な恋愛とは、せいぜいのところ宿命的ななり損ねであるに過ぎない。
こうしたドラマチックなパターンを「運命的なり損ね」と名付けるなら、これが軟化した場合に成立するのが「条件的なり損ね」である。現実上の困難を前に理想の剣を折り、手ごろな相手を恋人として選び取る、というような例がこれに当たる。世の恋愛のほとんどが後者に属することを思うだけでも、挫折によって二人が恋人同士となる事実を納得させるに十分だろう。
さて、我々が提起するのは先ほどと同様「戦略的なり損ね」である。意識的に友人になり損ねることによって自動的に恋人になりおおせようというのだが、実際、「運命的なり損ね」の例からも明らかなように、男女が恋人同士になるためには、友人の段階を飛ばすのが一番手っ取り早い。「戦略的なり損ね」はこれを悪用しつつ実行される。
世にはびこる恋愛マニュアルがおよそ実用的でないというのは、それらが「恋人になりおおせる方法」を教えるものだからである。どんな方法をもってしようが、目標からしてこれは実現困難なものに違いない。
真に考えられるべきは「いかに恋人になるか」ではなく、「いかに友人になり損ねるか」なのである。後者は前者に比べて極めてたやすい。なぜなら、恋人になるためには親愛の情を積み上げていかねばならないが、友人になり損ねるにはたった一度失敗すれば足りるのだから!
断言しよう。「あの子の恋人になるにはどうしたらいいだろう?」と思い悩むより、「あの子の友達になり損ねるにはどうしたらいいだろう?」と策を練る方が、恋愛は遥かにうまくいく!



つー、つー、つー。
保留音の間延びした調子にあくびを噛み殺していたあなたは、ようやく応答を得た。
「以上からおわかりの通り、ある一組の男女は友人から恋人に発展するのではなく、どこかの時点において友人になり損ねることによってのみ恋人になるのです。既にある関係が発展して恋愛になるなどということはありえなません。それらはすべて挫折を経験して恋愛に落ち着くのですから」
どうも妙だ、わたしはだまされているのではないだろうか。そんな不安がよぎりつつも一応の納得を見たあなたの胸に、新たな疑問が浮かび上がってくる。
「たしかに発展という言い方は差別的だったかもしれません。それは例えば友情と恋愛の権力差を承認するものなのですから。恋愛が友情の、友情が恋愛のなり損ねであるなら、すねに傷持つ者同士、互いの立場は対等なものになるでしょう。そこから考えを出発しようというあなたのお気持ちはよくわかります。しかしわたしは疑問なのですが、恋人同士になったコーヒーとシガレットにあって、本当に友情は消え失せてしまったのでしょうか?彼らを深く取り結んだものは、愛情でありながら同時に友情でもあったのではないでしょうか?」
一見すると、この疑問は本論に決定的な反証を突きつけるかに思える。彼女の言うとおり、現実上の関係は一語で捉え切れるような単純なものではない。恋人でありながら友人でもある、というような関係はごく当たり前に存在するし、ひとつの関係の中には他のあらゆる関係の芽が潜んでいる。そのうちからただひとつの芽を選んで光を投げかけるのは、“状況”という名の皮肉屋の太陽なのである。
そもそも、一人の人間は上司の前では部下、妹の前では兄、恋人の前では彼氏、というように、様々な関係を演じ分けながら日々を送っているものだ。正常な社会生活は関係の早着替えを通して営まれるものであり、準備に手間取るノロマや不必要と思われるほどの衣装持ちは、たちまち疎まれてしまう。まして、誰に対しても寝巻のままで応じようとするなら、これはもう病人か狂人というほかはない。
しかし、こうした疑問が我々の戦略の価値を損なわせることはいささかもない。そればかりか、ただひとつの問い返しをもって、なり損ねる方法はいっそう輝きを増すはずだ。
「では、それなのになぜあなたは恋愛と友情とを区別したがるのですか?」



答えに窮するあなた。あなたはどこにいる?あなたは部屋にいる。部屋にいながらにしてあなたは震えている。寒さのためではない。恐怖によって震えているのだ。言葉で言い表すことのできない不安が雨になって降り注いでいる。部屋の窓をすり抜けてあなたの布団を濡らす。震えはいっそう大きくなる。
あなたの震えはもっともだ。現実の関係は、ことに性の問題が深く根を張る男女の関係は、論理や理性で片付けてしまえるほど生易しいものではないのだから。まして、ひとつとして同じもののない恋愛をいっしょくたに扱うマニュアル本に救われようはずがない。
だがあなたは部屋から出なければならない。なぜなら、今やあなたは論理を超えた武器、「なにかになり損ねることによって別のなにかになる」方法を手にしているのだから。
「男女の友情は成立するか」という議論は、無意味であるばかりか、現実の苦難を拡大し、権力を承服し続ける点において有害ですらあった。このような泥沼に足を取られていては、苦しみはいささかも軽減せず、一人一人の生活がよりよいものになるなどということはあり得ない。今こそ我々は勇気を持って、奴に死罪を言いわたそう。
「2013年をもって、汝の肉体は燃え尽きんーー」
そして、来るべき希望の年、2014年に発されるべき問いは、例えば以下のようなものにならなければいけない。
「なぜ僕と彼女は友人になり損ねてしまったのだろう?なぜ恋人以外のなにかになることができなかったのだろう?」
「どうしてあたしはお母さんの娘に生まれたのかしら?状況が違えば、あたしたちは友人同士だったかもしれない。戦場で睨み合う敵同士だったかもしれない。それなのに、どうしてお母さんとあたしは、他のいろいろな関係のすべてになり損ねたのだろう?」
言うまでもなく、この問いはあらゆる関係に応用できる。ただひとつ必要なのは、「損ねる」という言葉からネガティブな意味を取り払う勇気だ。このキーワードをもってはじめてあらゆる関係を同一に語ることが可能になるのだから。しかし、本論は「損ねる」が秘めていた多様な輝きを示したばかりだから、こうした心配は杞憂だろう。
今やあらゆるすべての関係は対等になった。それらは皆他のなにかのなり損ねである点において違いはないのだから。このユートピアにおいては、あのいやらしい権力の蚊が飛来する余地はない。だが忘れてはいけない。不断の努力と差別を恐れない勇気がなければ、やつらはたちまち夜空に毒を流し込み、我々の世界を死滅させてしまうだろう。透明な蚊の前ではだれもがF氏になる危険を持っているのだ。
しかし我々は信じている。本論を読んで目覚めた一人一人が、ともに争いと苦痛のない世界の実現に向けて奮起してくれることを。そのためならいかなる労苦をもいとわないことを。
「なり損ね」の問いかけが明確な解答を得ることはない。断じてあってはならない。それは、一人一人の生活の中で谺のように鳴り響く、新しい闘争の音楽なのだから。