オノヨーコの銀河系

オノヨーコの声は別の言語で織られた賛美歌。あのように僕は書きたい。

音楽が羨ましい。音楽は自由だもの。僕はだけど、言葉で音楽したいから。

だれもがオノヨーコを知っていて、だれもオノヨーコを知らない。いったい、ボーカリスト・オノヨーコとどれだけの人が出会っただろう?あんなに自由な歌が他にあるだろうか?


 


泣きたいことがあったのに。泣きたいことをくれる右手が盗んでしまうから。わたしのものにならないのです。泣きたいことを返してください。盗んだ右手で返してください。わたしがわたしを泣けるように。




電話越し、恋人の声、どんなマッサージより遥かに心地よく耳をくすぐるのはなぜ?

声が重なった時点、言葉になる手前で音はせいぜい音楽にしかなってないはずで、通常、歌はいともたやすく言葉に体を許してしまうのだけど、あくまで寸前で踏みとどまろうとする美的闘争こそ、オノヨーコの歌なのだから。

非言語的で錯乱したパフォーマンスとの直接的な結びつきを見出しにくいヨーコの政治的側面も、実は同じライン上に位置付けられるような。例えば、フェミニズムの闘士としての顔は男性/女性の寸前で人間に踏みとどまること。イマジン・ピースな使命感は戦争/平和の寸前で想像力をもってふんばること。

Imagine Peaceというのも、平和を想像せよ、なんて、ヨーコお得意の命令形だけど、ここでの平和は戦乱の対概念では明らかにない。むしろ、単純な二分法の手前で想像力をもって立ち止まること、それこそが真の意味で“考える”ことなのだという、強靭で晴れやかな意志ではないか。

だから、イマジン・ピースというのは“想像平和力”とでも訳すべき複合名詞でもあるのだろうと、僕は理解している。オノヨーコは夢想家かもしれない。しかし、だれもが想像力を真摯に駆動する時、それでも世界が平らになり得ないとしたら、それはオノヨーコの無責任というより人間全体の無責任だろう。

まあ、僕は人間のそういう姿もありっちゃあり、と一人のゴシック者として感じるものだけど(笑)

ボーカリスト・オノヨーコについてもう少し。言葉を音楽に、音楽を音に、という還元作業を歌に適用すると、そこには最終的に“声の粒”とでも呼ぶべきものだけが残るだろう。この“声の粒”の特異な性質からして、僕はオノヨーコにルー・リードを感じる。なーんて言うと怒られるんだろうなー。だけど、怒る手前で想像してごらん?

オノヨーコとルー・リード。低熱で、無機質で、それでいてぬらっとした生命力がまとわりついてくる、お刺身みたいなあの感じ。これはまったく大里俊晴好みのアナロジーだと信じるものだけど、どうだろう?

少なくとも、僕の中では大里さんのルー・リード好きとオノヨーコ好きが繋がった気がして。