触れられる火は消えた光 〜『鬼火』を見て〜

達成感なんているかそんなもの
俺は死んだら完成なんだ
ーーSyrup16g『実弾 Nothing's gonna syrup us now』


当たり前のことを研究するのはちっとも当たり前ではない。
カナダの西洋古典学者ピーター・トゥーヒーの『退屈 息もつかせぬその歴史』(青土社,2011)はそのことに改めて気付かせてくれる好著だ。「退屈なものはなぜ退屈なのか?」という疑問から発して、退屈と呼ばれる感情の本質に迫るスリリングな試みである。
昨今、哲学書やその威を借るビジネス書の分野において、暇・退屈・無為といった概念に倫理的価値を見出す思潮が流行しているが、本書はそうした流行に少なからず寄与しているように思う。人間たまには休息を!と改まって叫ばねばならぬこと自体、我々を取り巻く社会全体に余裕がなくなり疲弊しきっていることの証左だが、無論こうした価値観は一朝一夕に形成されたものではない。人々を幸福にするはずの生産システム自体に疑義を唱える思想は、哲学史において確たる位置を占めている。代表選手はなんといってもショーペンハウエルニーチェだろうが、死ぬまで生を呪詛し続けたルーマニアの思想家シオランの存在も忘れてはいけない。日本には唯一者・辻潤がいたし、ポルトガルには不在の詩人・ペソアが、バロック期のフランスには、神父の身でありながら「世界の起源は、無から己を救い出すよう懇願した無」だとする驚くべき思想を展開した怪人物フェルナンド・ガリアーニがいた。こうした精神は古代ギリシアの昔から連綿と受け継がれる哲学史の裏面とも言えるものだが、戦後ヨーロッパにおいて改めてその価値が検討されるに至った経緯は興味深い。戦争である。相次ぐ新兵器の開発が可能にしたかつてない規模の大量殺戮。ことに、二度の大戦中ナチス・ドイツによる侵略を経験し、不羈独立のフランス精神ともども蹂躙された“花の都”パリの姿は、多くの人々に反省の契機を与えた。“労働に励み、教育によって人間を条件付け、文明化を推し進めていけば、世界は必ず良くなる”という近代の理想主義が最終的に導いたものは、皮肉にも人類史上最大の破壊行為であったわけだ。
かくして原理の根本が疑われることになる。“進歩”という観念自体に、実は致命的な誤謬が潜んでいたのではないか……
大戦を通じて練り上げられたサルトルの思想・実存主義は、瓦礫の焦土と化したフランスにおいてゼロからアイデンティティを見出していくための切実な方法論であった。以降、サルトルを乗り越える形で登場した現代思想がフランスを拠点に盛り上がる一方、芸術の中心はパリから戦勝国アメリカのニューヨークへと移っていく。


前置きが長くなった。
ルイ・マル監督の名作『鬼火』(63)の主人公アラン・ルロワの人生にも戦争が暗い影を落としている。多くを語らない彼だが、周囲とのやり取りがおぼろげに来歴を明かす。青年時代をパリで過ごし華やかな青春を謳歌したが、軍除隊後は酒に溺れ、ニューヨークに移り無為な生活を送った後、現在はヴェルサイユの治療院に起居している。
7月24日。ルロワが自殺すると決めたエックスデイに向かう46時間が静かに映し出されていく。
ニューヨークに住む恋人の訪問、ベッドにてもの問いたげな瞳の交換が行われる。フランス映画的な、あまりにフランス映画的なまなざしの愛撫。覗きこみ、瞳の奥を探るような見つめ方はアメリカ映画には見られない神秘だ。
一夜明け、院長に退院を迫られる。“完治”したため、というのがその理由だが、ルロワを蝕む真の病はアルコール中毒ではない。
勧められるまま、パリに住む妻に電報を送り、誘惑待ち受けるかの街にいざ出発。最期の顔見世興行だ。かつての友人たちの現況はそれぞれ。エキセントリックなエジプト学の研究者だった過去に背き平凡な幸福に安寧する者。彼は言う。「君は大人になることを恐がっている」答えてルロワ「君が僕を親友と思うなら、そんなところも含めて愛してくれ」なっさけなー。しかし悲痛。男女が、男と男が(女と女、はあまりないように思える)どんどん移動しながら哲学的な議論を交わす独特の運動性がまたフランス映画的である。刑期を終えてなお懲りず政治活動に身を投じる者、周囲を虜にした美貌を生かし金持ちの俗物(この手の輩をフランス語では“スノッブ”と呼ぶ)と結婚した者。このスノッブ野郎に対しルロワが抱く印象が最高である。
「あの疑わなさ、あの落ち着き……がっペムカつく!」(大意)
要するに、彼に取って耐えがたいものは悪ではない。愛と幸福を疑わぬ普通の人々の普通の感性こそが憎くてたまらないのである。そんなものはもちろん言いがかりに過ぎないから、彼の言葉はだれにも届かない。
「みんなには女がいる。僕にはなにもない」
「大人になるには欲望がいる。しかし僕はなにも欲しくない」
「僕はなににも触れることができない」
ひょんなきっかけから世界をズレてしまった人間は、世界に再び触れることができなくなってしまうのだ。
サルトルの小説『嘔吐』の冒頭を思い出そう。歴史学を愛好する平凡な三十男アントワーヌ・ロカンタンは、道に落ちている新聞紙を拾うのが好きだった。ざらざらした感触がたまらない。ところがある日、突然の違和感とともに新聞紙に触ることができなくなってしまう。これこそ慣れ親しんだ世界からロカンタンが切り離されてしまった瞬間だった。以来彼はどこでなにをしても楽しめなくなり、深刻な存在の不安を経験する。
『退屈 息もつかせぬその歴史』において、著者であるピーター・トゥーヒーは退屈の種類を大きく“単純な退屈”と“実存の退屈”の二つに分類している。前者は一時的に暇を持て余したり束の間ぼ〜っとする状態を指し、多くの場合はっきりした原因を持つのに対し、後者は原因を特定できない精神的・慢性的な倦怠を指す。その代表例にトゥーヒーが挙げているのが『嘔吐』であることからしても、ルロワがロカンタンと同じ種類の実存の退屈に陥っていることは明らかだろう。ただし、トゥーヒーがおもしろいのは、クリエイティブな人が陥りやすいと言われるこの形而上の病の存在を認めつつも、冷静かつ辛辣な位置付けを試みている点だ。
“実存の退屈は感情でも、気分でも、感覚でもない。むしろこれは、強い印象を与える知的形式と考えるほうがよい。自分たちだけがとりわけおちいりやすいと、インテリが信じたがっている何かなのだ。” (217ページより)
“この二種の退屈がごちゃごちゃになった理由は鬱にある。鬱はこの二つをリンクさせているのだ。ひとつには、単純な退屈が癒されないまま慢性化した場合、鬱と退屈、狂気のサイクルにおちいるわけだから、そのサイクルの一端として鬱はある。他方、実存の退屈と名づけられたごたまぜ状態に、含まれうる要素のひとつとしても鬱はある。「退屈」と呼ぶよりもこの名で呼んだほうが、こちらの場合は正確だろう。” (215ページより)
つまりこう。
実存の退屈と呼ばれる症状の実際は、どう考えても単なる鬱である。従って医学的にはそれは存在しない。とはいえ、単純な退屈や鬱とは別様に捉えられてきた歴史がたしかにあるのだから、それは概念として存在するのだ。
科学的見地と文学的見地とをフラットに突き合わせた結果、トゥーヒーはおおよそ以上のような診断を下すに至る。これはなかなかに衝撃的な結論ではないだろうか?本書が楽観的な哲学書や凡百のビジネス書と一線を画して痛快なのはこの点である。
また、主人公ロカンタンによる告白が全編を覆い、外からの視点をほとんど欠いた(もちろん、それがこの小説の欠点だと言いたいわけではない)『嘔吐』と『鬼火』が異なるのも同じ印象にかかっている。かつての花形スター・ルロワの再訪を受けたパリの人々はみな大げさに歓迎の意を唱えるが、その癖、当人の姿が見えなくなるやひそひそ声で囁き出すのだ。
「昔はいい男だったのに見る影もない」
「アル中だ」
「鬱だな」
「彼は不幸なだけよ」
「結局は落伍者に過ぎない」
さりげなく、いや〜なリアルさ!
いくらかっこつけたところでてめえなんざイタいおっさんに過ぎねえ!という外部からの“現実的な”視点がきっちり挿入されているのである。


なにものにも触れることができないルロワに触れられる人間は、結局のところ存在しない。
さまざまな言葉を通じて向けられた愛や説得とはまったく無関係に(説得が失敗したわけではない。物語の最初からそれらが届かない場所に彼はいるのだ)ヴェルサイユの診療院に戻ったルロワは、自ら命を絶つ。心臓にピタリ銃口を当て、バーン!
一巻の終わり。


さて、現代を生きるわれわれはこの映画をどのように受け取るべきだろう。
実存の退屈に囚われた人間を静かに描く文学ドラマ?
戦争の後遺症に悩む人間の姿を浮き彫りにした社会派作品?
ええ歳こいて中二病のおっさんがイキり倒す笑えない喜劇?
はたまた深読みして、
パリとニューヨークという戦争の影響を蒙った二大都市を行き来する主人公の死に、哲学と芸術の歴史的道行きの暗示を見る?
どれも自由である。
医学的見地からして“正しい”のは二番なはずだが……


映画『鬼火』の主人公アラン・ルロワは、拳銃自殺した実在のダダ詩人ジャック・リゴーがそのモデルになっている。数少ないリゴーの文章は『自殺総代理店』(エディション・イレーヌ,2007)で読めるが、ここに並べられている透徹した言葉や思考に触れていると、やはりどうしてもトゥーヒーの身も蓋もない現実主義を否定してみたい気分になってくる。小著でありながら淡々と読者を自死へ導く(!)美しくも不可思議な本なのだ。今こそ叫ぼう。STAP細胞と実存の退屈は、あります!
いずれにせよ、リゴーの魂に触れられるのは彼が言葉を残したからだ。生前のルロワの姿が皮肉抜きの好意をもって語られるとすれば、それは彼が死んでもはや言葉を返さぬからであろう。芸術に関わる営みには少なからずこのような残酷性が潜んでいる。ルロワがたとえ死んだ火=鬼火として生きていたのだとしても、安心して触れられるのは火が消えた後であり、映画にせよ本にせよ、わずかに光り輝いた痕跡を辿れるに過ぎないのだ。


最後に音楽に触れておく。
使われているのはサティの「ジムノペディ」と「グノシエンヌ」。サティの音楽の魅力といえば、故・伊福部昭の指摘通り余計な感傷を排した音の運動自体にあると言われることが多いが、この種の評価には昔から違和感が拭えなかった。なんとなれば、ジムノペディとグノシエンヌほど感情に訴える曲が他にあろうか!?
従って、これまた大方の評価とは反対に、『鬼火』にこの二曲が流れることはやや感傷過多で余計なようにも感じられた。サティの音楽が持つイメージ喚起力の強さを改めて認識した次第。とはいえ、このように感じられるのは僕自身が感傷的な人間だからなのだろうか?
またしてもトゥーヒーとリゴーが対立してしまうのである。