眼刺しのラブレター ~『女王陛下のお気に入り』解体~

どきどきしていた。わくわくしていた。アメリカ版のティーザー動画が上がったのが去年暮れ。『The Favourite』=おきにいり。通常なら“Favorite”と綴るところ、意味深な“u”ひとつ。この綴り方はたしか、古式ゆかしきイギリス英語だ。高校の授業で聞いた記憶。どういうことだろう?なにが起こっているのだろう?十八世紀英国が舞台らしい、と知って納得する反面、不安にもなった。あのランティモスが時代劇。妙に大向こう受けを狙った映画になっていたらどうしよう?僕だけのランティモスじゃなくなってしまったら?
どきどき、わくわく、そわそわしながら劇場に足を運んだ。結果。まったくの杞憂!
時代劇だろうが、予算が拡大しようが、メジャー級の役者を起用しようが、ランティモスはランティモスだった。胸焼けするほど濃厚。それでいてポップ。理想的なバランスが達成されていたのだ。いやいや大丈夫そこまでやっちゃって~、とツッコみながらニヤニヤする、特権的なあの快楽に酔いしれた。


あらすじを紹介しておこう。
時は18世紀初頭、アン女王のイングランドルイ14世のフランスとは交戦中で、このほど英国軍が勝利を収めたばかり。宮廷では女管長サラが病弱でわがままな女王を操り、権力をほしいままにしている。そんなサラの前に没落貴族の娘アビゲイルが現れる。当初こそうすのろと見えたアビゲイルだったが、実は中身はヤリ手ババア、痛風に悩むアンに特効薬を授け、女王付きの侍女へとランクアップ。野心満々、弾みがついた彼女は、アンからの好意と政治的対立を利用してのし上がっていく。あたしのものよ、ふたつとも!敢然と立ちはだかるサラ。果たして勝利の女神は、新旧どちらのお気に入りに微笑むのか!?


ざっとこんな感じ。
ところでこの文章は、脱輪の手になる連続評論“ランティモス解体三部作”の三作目にあたる。当然のこと、前二作から引っこ抜いた剣をぶん回し『女王陛下のお気に入り』を解体する流れになるわけで。こっちのあらすじもお見知りおきを……

①しらない恍惚を盗む人〜聖なる鹿殺し、ヨルゴス・ランティモス、神話的境界〜|脱輪 @waganugeru|note(ノート)https://note.mu/waganugeru/n/nb169ebf9568e
キリスト教のパラドクスから“神話的境界”というキーワードを取り出し、ランティモスの映画『聖なる鹿殺し』の読解を試みた。文体は硬軟取り混ぜ、神学から現代思想まで取りこんだ欲張りな内容。

ヨルゴス・ランティモスと神話的リアリティの地平~作家論に代えて~|脱輪 @waganugeru|note(ノート)https://note.mu/waganugeru/n/n8cbc42ecd364
神話的境界が作品にもたらす特殊な気配=“神話的リアリティ”を追求する映画作家の系譜を設定し、その最前衛にランティモスを位置づけた。また『聖なる鹿殺し』中から神話的リアリティを構成する重要素を取り上げ、日本公開された全作『籠の中の乙女』『ロブスター』『聖なる鹿殺し』の分析に役立てた。単一の主題を深める内容に合わせ、簡潔で歯切れの良い文体(のつもり)。

要するにどういうこと!?
次の通り。
ヨルゴス・ランティモスの映画には共通する複数のファクターが存在し、それらが有機的に結びつくことによって、人間を根源から支配する不気味ななにものか=神話的境界の存在を可視化している。境界に支配された人間の悲喜劇(それはたぶん、あなたの鏡)を目撃する観客は“神話的リアリティの恍惚”とでも呼ぶべき、戦慄と官能がないまぜになった感覚を受け取る。ランティモスの映画がかつてないほど恐ろしく、しかも奇妙にエロティックなのはこうした理由によるのである。”


さあいよいよ『女王陛下のお気に入り』だ。分析に入る前に、今一度ランティモス映画に共通するファクターを確認しておこう。
・持て余されたからだ/快楽を阻害される性
・不慣れな暴力/笑えない笑い
・視覚の去勢
・謎めいた動物趣味
以上のピースを様々な仕方で組み合わせることによって、ランティモスは神話的リアリティのパズルを構成し、作品ごとにその美的(恐的)完成度を高めている。というのが僕の見立て。果たして、こうした要素は本作にも認められるのだろうか?
ひとつずつ検討していこう。


・持て余されたからだ
病弱なアン女王は絶えず身体の苦痛に苛まれ、他者の助けを必要としている。杖や車椅子、移動用のカートといった補助器具がなければ歩行もままならない。浮き沈みが激しくヒステリックな気性は、からだを自分一人で管理できない苛立ちに起因するものだろう。つまり“持て余されたからだ”というテーマをまるごと生きているのがアンという人物なわけだが、同時に彼女は最高権力者でもある。望むと望まざるとに関わらず、身体器官はあらかじめ権力を分有してしまう。目で見れば示唆になり、口で話せば命令になり、手で書けば決定になるーー比喩的に言って王の身体性とはこのような性質のものなのだ。だから女王がからだを持て余している現状は、大量の銃火器が詰まった武器庫の扉が半開きになっているようなものだ。争いは免れない。
本作のストーリー展開の肝は、二種類の争いが絡み合いながら進行していくダイナミクスにあろう。トーリー党ホイッグ党の権力争い、サラとアビゲイルの愛憎劇。このいずれの中心にもアンがいるのは、彼女が女王であるためだけではない。権力者でありながら不具者でもある矛盾した身体性をコントロールできずにいるためなのだ。
男性の政治家たちが狙うのは無論“王の身体”の操縦権である。政治上の重要な決定はほとんどサラが下しており、アンは言いなりになっているに過ぎない。付け入る隙は充分あるわけだ。
一方で、アンが露悪的なまでに愛欲を求めるのは、“不具者の身体”が発する切実な要請のためである。自分で認められないからだは、他人に触れて確かめてもらうほかない。いわばサラとアビゲイルはベッドに持ち込める杖なのだ。
要約すれば、『女王陛下のお気に入り』はアンという持て余された体の領土争いを描く物語なのである。


・快楽を阻害される性
ランティモス映画におけるセックスシーンのことごとくが“不味そう”に見えることは既に書いた。理由はふたつでひとつ。快楽がある場合には挿入がないこと、挿入がある場合には快楽がないこと。
まさにあっちをたたせばこっちがたたず。両雄並び立つ機会はついぞないから、セックスはよそよそしく不気味なものに映る。要するに、性はいつも必ず到達しないように作られているわけだ。再三確認してきた通り、これは見えざる禁令を発している不条理な力に観客の注意を向けさせる仕掛けである。神話的境界とは、生存のオーガズムを阻む存在論的コンドームの名称なのだ。
本作ではどうだろう?主眼となるのはアンとサラ、アンとアビゲイルによる性愛である。なるほど女性同士というのは新機軸だが、挿入を伴わないセックスの直接の表象と捉えれば、これほどわかりやすいこともない。唯一描かれる男女の性関係=アビゲイルとマシャム大佐のベッドシーンはと見れば、嗚呼またしても!なにやらぶつぶつとつぶやきながらまったくの無表情で(恐ろしいまでの真顔アップで!)マシャムを手コキするアビゲイル。事務的な手コキシーンは、今やランティモス映画におなじみとなった光景だ。『ロブスター』のメイド、『聖なる鹿殺し』の妻の姿を継承しつつ、政治的野心という真逆の要素が覗くぶん、アビゲイルのそれはいっそう強烈である。
まとめると、前者のセックスには快楽はあっても挿入がない。後者のセックスには快楽がなければ挿入もない。おまけに今回は宮廷が舞台、すべての情事に政治性が絡みつくことは不可避であり、健全なコミュニケーションとしての性はやはり一度も現れ出ない。
それにしてもランティモスの手コキへの執着は尋常ではない。“到達しない性”の視覚的シンボルであることは指摘済みだが、ここまで来ると個人的な性癖を疑わずにはいられないレベル……


・不慣れな暴力/笑えない笑い
ランティモスのユーモアは「明るく、単純な」という形容で言い表されるものの裏側に潜んでいる。屈折した影を持ち、奇妙な対比に彩られている。サラが落馬しケガを負うシーンと貴族たちが爆笑しながら道化にトマトを投げつけるシーンがカットバックされる演出はその典型であり、映画の折り返し地点に位置する見せ場ともなっている。
とはいえ、異質な要素をぶつけることによって劇的効果を高める手法自体は珍しいものではない。ランティモス作品を特徴付けるのは、そうした対比の底にしばしば“不慣れな暴力”と“笑えない笑い”という主題が横たわっている点だ。両者は持て余されたからだが生むアクションの原因と結果として、セットで出現する場合が多い。
注目すべきはやはり持て余されたからだを生きる張本人・アン女王だろう。彼女のふるまいには普段から道化じみた大仰さがあるが、なんといっても可笑しいのが自殺未遂のシーンだ。 
開け放たれた窓。桟の上に立つ後ろ姿。アンだ!アンが飛び降りようとしている!すんでのところを駆けつけたサラに抱きとめられ、どでーん!っと、仰向けに倒れこむ。駄々っ子のように泣き叫ぶアン。
この愚かな狂言芝居を、単にサラの気を引くためのものとばかり取るのは命取りだ。
暴力はセックスと同じ肉体のコミュニケーションであり、その主体を引き受けるためには自己認識の完了したからだが要求されることは既に書いた。持て余されたからだとはつまり、一貫した身体性の真逆に位置する揺らぎであり、ひとたびこの不安な肉体を通過すれば、セックスは到達し得ぬ不能に、暴力は間の抜けた不格好なものに堕してしまう。その様子は滑稽だが、「おもろいけどよう笑わん」切実さを含んでもいる。
ゾッとして、笑えて、再びゾッとするのは、自殺を演じるこどもじみたふるまいの中に、異質な身体性の揺らぎ、よそよそしいからだの運動が隠されているからではないだろうか?生まれつき病弱で外向きの暴力を所有し得ないアン=奴隷的な身体を持て余すアンに行使できるのは、自らを人質に取る内向きの暴力=王としての身体を危険に晒す賭けのみなのである。つまり、ここで演じられている行動の本質は自傷ではなく、奴隷による王の殺害なのだ。従って、アンの巨大な身体が倒れるアクションは、単なる質量を超えた妙な実在感をもってわれわれに迫る。一人の人間の内部でじぶん同士を引っ張り合う力が、彼女のからだを重たくしている。


・視覚の去勢
冒頭、アンがサラに真っ黒なスカーフで目隠しをする。
美しいサラと醜いアンという表面上の対比は、痩身で姿勢正しいサラ=承認されたからだ、太り肉で病弱なアン=思うままにならぬからだという、より本質的な差異を隠し持っている。こうしたからだの権力関係は、そのまま二人の恋愛/政治上の立場にも反映されつつ、まなざしの呪いを形作っていく。
自分自身ですらよくわからない体を他者の視線に晒すのは不安であり、恐怖だ。たびたび垣間見えるアンの視線恐怖はここから来ているだろう。召使いに怒鳴り散らすセリフは象徴的だ。
「今見たか?こっちを見ろ!あっちを向けー!」
矢継ぎ早に真逆の命令を繰り出すシーンには、アンの抱えるジレンマが表現されている。持て余されたからだは見る主体になり得ない。見ることは目で触れることであり、果敢なコミュニケーションの一種であるからだ。従って自信のなさを隠すためのヒステリックな調子を除けば、セリフは以下のように翻訳できる。
「見る側に回れないなら、いっそ強く見て。形作って。不安なわたしのからだを釘刺して。いや見ないで。これ以上晒し者にしないでちょうだい……」
裏を返せば
「見せろ。一方的に、見られることなく、思う存分、わたしに目で触れさせろ」
日頃から他者の助けを必要とし、一方的に見られる/触れられるオブジェとしてあるアンは、内心そのことが悔しくてたまらないのではないか?幼少の頃より恋い焦がれ、全幅の信頼を寄せるサラが相手ならなおさら。だからこそ、アンがサラに目隠しするシーンが冒頭に置かれていることの意味は重い。人工的な視覚の剥奪=目隠しは、見られることなく見るための暗い欲望を叶える手段なのである。それはささやかな反逆行為、サラに備わった健やかさへの無意識の復讐である。
この通り、目隠しは従来の支配関係を転覆する遊戯として表象されている。『女王陛下のお気に入り』の世界においては、よりよく見るための目を持つ者がより多くの力を手にするのだ。目玉が支配する権力バランスはもうひとつのテーマである愛とも複雑に絡み合う。
ぱっちり二重の巨大な瞳が意志の強さを感じさせるアビゲイル、大きさこそアビゲイルに譲るものの知的で鋭い光を目に宿すサラ、自信なさげに時折目を伏せる仕草が印象的なアン。この目玉の大中小が、椅子取りゲームのとりあえずの結果に対応するだろう。しかしこの構図は、目隠しをはじめとする人工的な(あるいは運命的な)視覚の剥奪を通して、時々刻刻と変化していくのだ。
そもそもアビゲイルがアンを肉体的に籠絡する決意を固めるのは、アンとサラの情事を目撃したことによる。偶然敵の弱みを握ったということ以上に、これはアビゲイルが一方的な視覚を獲得した瞬間、目玉の戦争に勝利した瞬間だったのである。彼女はいっそう大胆な行動に出るようになり、多くの戦果を上げるが、いよいよ進退窮まった時=自分の目玉の力が弱まった時には、敵の目玉を傷つける以外術がない。追いつめられたアビゲイルは、なんとサラの紅茶に毒を盛る。気付かず乗馬に繰り出したサラは意識朦朧のていで落馬、顔の左側に重傷を負う。その傷を隠すべく、彼女は左目を真っ黒い眼帯で覆うことになる。つまり、全的な視覚=権力そのものを奪おうとしたアビゲイルの計略は失敗し、半分を奪うにとどまったわけだ。
苦心の末宮廷に舞い戻ったサラだったが、アビゲイルの計略が縦横に張り巡らされたそこにもはや彼女の居場所はなかった。頼みの綱であるアンさえもがサラを裏切り、アビゲイルを選び取る始末。
ところが彼女の去った宮廷では奇妙な事態が発生する。おそらくは急速に病が進行した結果だろう、アンの左目が腫れ上がり、ほとんど開かなくなってしまっているのだ。これは明らかにサラが失った左目の再現である。あたかもサラの無念がウイルスとなって感染したかのような有様。結局は、目玉のゲームに勝利したのはアビゲイル一人だった。彼女だけが視力と健康をいささかも損なうことなく、何不自由ない暮らしを送る。戦いは終わったのだ……
ところが、である。この後に続く展開によって目玉のゲームの勝敗は大きく覆されることになる。
宮廷を離れた森の家に隠遁し、さっぱりした諦めを抱いている風情のサラ。至れり尽くせりの生活に倦怠し始めたアビゲイルとは対照的だ。形勢逆転を目論む元大蔵大臣ゴドルフィンの口添えにより、サラはアンに手紙をしたためることにする。その内容は衝撃的だ。一度、二度、と書き直した後、サラはアンに向かってこう告白するのである。
「あなたの目を刺すことを夢見ていました」
これはいったいなにを意味しているのだろう?
アンは持て余されたからだ・見ることのできない目を持つ。サラは承認されたからだ・健やかな目を持つ。従って恋愛においても政治においても、アンはサラの下位にとどまらざるを得ない。劣等感を抱くアンはサラに目隠しをし、無意識的な関係逆転を図る。
ここまでの見立てでは、視覚の剥奪はマイナスの感情を原動力としているかに思えた。ところがどうだろう?ずっと昔から、おそらくは二人が出会った幼少の頃から、サラはアンの目を突き刺すことを望んでいたというのだ。これが本当なら、二人の関係はアンが思っていたものとは真逆のものになる。アンがサラに憧れていたように、サラもアンに憧れていた。サラこそがアンの下位にいたのだ。ゴドルフィンと同じ熱量を持って彼女が手紙に起死回生を賭けているとは思えない。珍しく冷静を欠き、感情的に手紙を書き直す身振りから考えても、ここに現れた言葉は本心と受け取るべきだろう。だとすれば、これは愛なのだ。どれだけ特殊な形であろうと、手紙はラブレターであり、視覚の剥奪は愛の告白なのである。
かくして読み方は美しく倒立する。サラがアンの目を刺す=視覚を奪うことが「そうせざるを得ないほどあなたに恋焦がれている」メッセージなら、冒頭でアンがサラにする目隠しもまた、無意識的な求愛だったと言えるのではないだろうか?そう、当初はアビゲイルによってもたらされたかに思えたサラの左目の傷は、紅茶を飲む直前のアンのセリフ「片目の男の夢を見たわ」に予言として導かれたものだったのだ。そうしてアン→サラ、アン→サラと繰り返し出されたラブレターには、左目の傷の感染によって一度、最後の手紙によって二度、きちんと返事が返ってくるのである。驚くなかれ、『女王陛下のお気に入り』は、冒頭ひっそりと投函されたラブレターがまなざしの連絡網を伝って返ってくる純愛ドラマだったのである!
しかしサラの手紙がアンの手に届くことはない。「あなたの目を刺すことを夢見ていました」云々の文面も結局はサラ自身の手で破棄されるからだ。試行錯誤の末書き上げられた実際の手紙も、アビゲイルによって焼き捨てられてしまう。とはいえその中身は、彼女が予想していた復帰を懇願するていのものではなかったに違いない。破棄された文面同様、鋭利な、血が出るほど純粋なラブレターだったのだろう。
あの無慈悲なアビゲイルが、遂に一筋の涙を流すに至る。最後の最後で彼女は、サラの愛が真実であるゆえ、その苛烈な純真のゆえに敗北を喫するのだ。もうおわかりだろう、全編通じてアビゲイルの目になんらの変容も見られないことは、彼女が権力ゲームの勝者であることを指すのではなく、アンとサラの影響し合う関係に実は最後まで入りこめなかった事実を指すのである。


・謎めいた動物趣味
ランティモスの映画は毎度様々な動物の姿を仄めかす。犬、ロブスター、鹿と来て、ウサギ。仄めかされるだけで登場しなかったのが、本作では遂にお目見え。それも17匹。やりすぎである。アヒルや解体された鹿肉もチラッと映る。前作のタイトルにひっかけたシャレであろうか。
動物は必ずなにかの比喩、身代わり、象徴として扱われる。犬は囚われた人間の風刺、ロブスターは罰ゲームとしての変身、鹿はギリシア神話における犠牲の象徴。今回のウサギにしてもアンが失った子供の身代わりとして飼育されているわけで、言ってみれば“本物”ではない。
とはいえウサギで女王でイギリスで……と来れば、だれもが思い浮かべるのがルイス・キャロルの名作『不思議の国のアリス』だろう。女王のセリフ「今見たか?こっちを見ろ!あっちを向けー!」ひとつ取っても、イギリス文学におけるパラドクスの伝統を感じさせるものだが、アンがふざけてアビゲイルに“Off your head!”(首をちょんぎっておしまい!)と叫ぶシーンが入れられているのはおもしろい。言うまでもなくこれは『不思議の国のアリス』中の女王のセリフ“Chop off her head!”のパロディである。アリスの出版は1854年なので時代設定が矛盾するものの、登場人物が現代英語で罵り合ったり衣装にデニム生地が使われてたりする超時代性ゆえ、問題はないだろう。 
ラストシーンをどのように受け取るかはあなた次第である。


検討終了。
結論、「本作にもやはりすべてのランティモス・ファクターが当てはまる」
いいかげん、脱輪説の妥当性は認められていいのではないだろうか?あらかじめ映画公開前に提示しておいたポイントが、予言のごとくすべて実現されたというのだから!
それはそれとして……
ファクターが示唆する神話的境界は、今作ではなにに該当するのだろう?
簡単だ。これはどう考えても、アン女王のからだを異なる身体性に引き裂く力=“病”そのものである。不自由を嘆く人物はアン以外には見当たらないから、境界の影響が及んでいるのはあくまで彼女一人だと言える。サラにしろアビゲイルにしろ、むしろその振る舞いは自由すぎるほどではないか!?
本作におけるストーリーの骨格は、アンというからだを巡る領土争いだと先に書いたが、その広大にして堅牢な不自由は、結局のところ誰にも侵し得ない。サラやアビゲイルにも、アン自身にすら。それは、始めから終わりまでずっと神話的境界という透明な主体の所有下にあるのだ。結果として映画を見終わったわれわれの内部に残るのは、孤独や悲しみといった感情よりむしろ、それらが凝集した先=どこにも属さないために全体から浮き上がってしまうからだの質量である。
女王陛下のお気に入り』がこれまでのランティモス作品と大きく異なるのは、この身も蓋もない即物性・具体性であろう。極限まで削ぎ落とされているために一見しただけでは意味が取りづらい独特なセリフ回しも、今作ではほとんど見当たらない。こうした変化を単に作風の一般化・大衆化と捉えてしまってよいものだろうか?
それぞれのファクターの分析を通じて幾度もその言葉を使わざるを得なかったように、本作におけるモチーフの取り扱い方の“直接”性はあたかも自由な解釈を拒むようですらある。あるいは、誘導に従って直接に表現された事柄を直接に読むなら、本稿の読解をご破算にすることも可能かもしれない。例えばアンが不安そうに見えるのはただ病気に苦しんでいるからだし、挿入がないのは女性同士のセックスだから当たり前だし、アンがサラに目隠しするのはプレゼントへの期待を高めたかったからで他の意味など存在しない……というように。しかし、まさにこの点こそが罠なのである。
女王陛下のお気に入り』が、もし仮に明示されたものをそのまま受け取ることによって説明しきれてしまう程度の作品なら、高度な暗喩が絡み合ったランティモス・ファクターがそっくり当てはまるのはなぜだろう?いや、もっと単純に、本作を見終わったあなたは本当に“それだけでは説明しきれないなにか奇妙なもの”を受け取らなかったというのだろうか?
問いを考え抜いた場合、答えはこうなる。『女王陛下のお気に入り』で試みられたのは、明らかに目に見える部分に象徴を貼り付けることによって、それらが本来属している領域からわれわれの目を逸らす逆説的な手法なのだと。もちろん象徴が本来属している領域とは神話的境界のことであり、その存在様態を暴こうとする試みこそが“ランティモス解体三部作”であることは今さら言うまでもない。
見逃せない変化がいまひとつ。それは、過去作では暴力的な装置として機能してきたまなざしのモチーフが、わずかなりとも肯定的に捉えられている点だ。「あなたの目を刺すことを夢見ていました」という言葉がラブレターとして書かれることは、視覚の剥奪がそのまま死に繋がっていた前作『聖なる鹿殺し』からは想像もつかない変化であろう。少なくとも、人間同士のコミュニケーションがことごとく不全と化すランティモス・ワールドにおいて、視線の力がのっぴきならない影響を他者に及ぼしていく展開は、アイスピック片手に自身と見つめ合うほかなかった『ロブスター』の主人公の、オイディプス的な袋小路のその先を指し示すものだと言えよう。もっとも、愛する者の視覚を奪うことで独占欲を満たす愛は、やはり充分に異様ではあろうが。


最後に、今作で新しく登場した要素について少々。
・広角レンズの導入……『聖なる鹿殺し』におけるカメラのズームイン・ズームアウト同様、“世界”というフレームを見下ろす神/観客の視点の残酷性を強調している。パノラマ的な視界の湾曲によって、よりつくりものめいた人口性が際立つ。画面狭しと色彩の美術が犇めく目眩感も!
・豪華な美術セット、衣装デザイン……特筆ものの素晴らしさ!であり、簡素な背景を旨としていた従来のランティモス作品には見られなかった要素。もともと絵画的に構築された画面中にこちらを見つめる肖像画が抱き込まれることにより、胸焼けを催す過剰が構築されている。凝り性のランティモスのこと、ひとつひとつの美術品に暗示や意味が込められているのは間違いなく、作品を特定可能な専門家の解説を強く望む。
・男女のジェンダーイメージの転倒
従来の時代劇とは反対に、着飾ることに身をやつすのはもっぱら男の方であり、彼らは三人の女に利用されるだけの哀しき玩具として置かれている。昨今のフェミニズムの高まりとも呼応するようで興味深い。アビゲイルなんか三度もどろんこになって、たくましいったら!


このささやかなラブレターが、ヨルゴス・ランティモスの目を、他でもないあなたの目を刺すことを夢見て。