立体をからかうアイスピック 〜『ピアッシング』というゲーム  

村上龍の原作小説をアメリカインディー期待の新鋭ニコラス・ペッシェ監督が映画化した。刺したいのか、殺したいのか、アイスピックに取り憑かれた男リードをクリストファー・アボットが、生きたいのか、死にたいのか、ハルシオンの波間に漂う女ジャッキーをミア・ワシコウスカがそれぞれ演じている。
舞台は存在しないニューヨーク、超高層ビルのネオンが均一に瞬く人工の大都会。いたずらに誤った、運命を踏み外した二人が演じる一夜の猿芝居。

 

サイコホラー、との触れ込みだが、二人の狂気はありきたりでありふれ、どこにでも転がっているたちのものに過ぎない。内に抱えたままやり過ごすか、取りこぼして外部に表出するか、たったそれだけの、あるかなきかの境界が狂気と呼ばれていることに、われわれはとっくに気づいている。だから実のところ、この映画はサイコでもホラーでもない。平凡なサイコが特別なホラーを夢見た挙句、うっかり実現してしまう刺激的なコメディである。
そのように作られているところに『ピアッシング』の独自性が発見されよう。ある種の品格と言い換えてもいい。

 

品格あるたわむれ/血塗られた惨劇
この二つは迷路のスタートとゴールのようなもので、あきらめず根気よくルートを辿れば、道は繋がる。繋がってしまう。われわれはふだん、いかなるルートも通じることがないよう、指先で道をなぞりたくなる誘惑を遠ざけつつ、懸命に探索をあきらめている。もしリードとジャッキーを正気から隔てるものがあるとすれば、探索を断念できない誠実さだろう。望まれぬ誠実が肩こりのように居着いてしまったこころの状態を、精神医学ではトラウマと呼ぶ。
しかしスタート地点ではたしかにたわむれ、ゲームであった。ゴールを目指す途上においてさえ、実はそうなのだ。
異常なまでにスタイリッシュな部屋やホテルの内装、絵画的に企まれた画面構成、陰惨さをからかうような音楽。そして、傷ついた二人を運ぶタクシー(イエローキャブ?)やホテル備え付けの電話、タイトルクレジットなどに見られる強烈な黄色の色彩。すべての要素が反リアリズムのゲームとしての映画を強調する。
現実のニューヨークの風景にミニチュアセットを折り混ぜながら映される巨大ビル群。細胞の集合体のようなマンションの全景からズームアップしてリードの住む一室にカメラが吸い込まれていく冒頭はヒッチコック、いやむしろヒッチコックに取り憑かれたデ・パルマを思わせる(画面を二分割して男女の様子を同時に捉えるこれみよがしの技法など、まさに!)が、均一に並んだ窓窓をスムースな移動撮影によって延々と映し出すオープニング/エンドクレジットには、“無機質で人工的な都会”というおきまりの表象を超えたなにかが宿っている。飽くことなく上昇を続けるカメラの動きを目で追ううち、われわれはふと疑念に襲われる。ひょっとするとこのビルは、いつまでもどこまでも、無限に連続しているのではないか?終わりない循環がもたらす目まいは、エッシャー宇宙における遊戯的な視覚の快楽。
このマニエリスティックな空間に、滑稽で人間的なふるまいが現れ出ることがおもしろい。計画を細かくメモし、女にクロロホルムを嗅がせアイスピックで刺し殺す練習をするリード、そのくせ、ちっともうまくいかず噛み合わない二人のやりとり。半裸でふらふら部屋から出てきたSM嬢を全力で走りこんで押し戻そうとするアクション。はっきり妄想幻聴として殺意を煽り立てる超自我が、妻や幼いわが子、ホテルのフロント係に憑依する演出。やってることはホラーでも、コント的な軽みが常に漂う。
音楽の趣味も変わっている。陰惨なシーンにあえて陽気なポップスを流すのは異化効果を狙うホラー映画の常套手段だが、それとも違う。「イパネマの娘」なんてのは普通じゃない。そもそも、音量が上下する感覚が不思議で、“どこから聞こえているのかわからない”。例えば、なんらかの曲がインしてきて一定の音量で鳴っていれば、観客は無意識に「これは映画の外から聞こえているBGMだ」と理解するだろう。一方、駐車場に停車した黒塗りのバンをカメラが捉え、そこにドゥンッドゥンッ、低いベース音が響いているシーンを想像してほしい。続いてカメラが車中を映し出すと、途端に音量は跳ね上がり爆音のヒップホップが流れる。この場合には「なるほどさっきのは車から漏れ出る音だったんだな。で、これは映画の中で実際に聞こえている音楽なのだ」と気付くはずだ。効果音と具体音の違い、とでも言おうか。ことさら観客に意識されることはなくても、音楽に鋭敏な作り手は両者の特性をよく認識した上で、時に従い、時に裏切る。そこには作法や美学が厳然とあるのだ(余談だが、少し前話題になったホラー映画『クワイエット・プレイス』を僕が評価しない理由は、ひとつにはこうした作法がまるでなっちゃいないことによる)。しかるに、『ピアッシング』はどうか?なにかしらの美学に基づいた音楽選択・設計がされていることに間違いはなさそうだ。ただし、音楽を出し入れするタイミングや音量の上下が独特なあまり、効果音楽と具体音楽の境界が曖昧になっている。結果として人工的に装われた雰囲気が生まれている。
黄色はヒトを狂わせる色。ゴッホのひまわりの色であり、『キル・ビル』の、ダリオ・アルジェントの、70年代のジャーロ映画の色だ。ジャーロとはイタリア語の黄色であり、暴力的なパルプ小説の表紙が黄色をしていたことに由来する。オープニングで流れる曲を聞いて「すわ、ゴブリン!?」と思ったらゴブリンはエンディング曲の方で、前者はとあるジャーロ映画のテーマソングなのだそう。既存の曲ばかりを使用することは、先行作品へのリスペクトであるのはもちろん、つくられたものとたわむれる遊戯精神でもあろう。

 

ピアッシング』独自な虚構性を、たわむれ、からかい、ゲーム、という言葉を使って確認してきた。だが、いったいだれとだれがたわむれ、だれがだれをからかい、だれがどのようなゲームに参加しているというのか。
アイスピック。
彼がゲームのプレイヤーで、さまざまな狂気のなかから無作為にリードとチャッキーをキャラ選択しプレイしている。そんな印象だ。
きっと、質量のないまっすぐなからだに、細く鋭く尖った形状に、リードは魅せられている。人を刺すのに、殺すのに、凶器はなんだっていいはずだが、彼は執拗にアイスピックにこだわり続けるのだ。ハルシオンで眠らされ混乱のなかで目を覚ましたリードが口にする言葉が「いったいなんだ?」ではなく「アイスピック……」であることはあまりに可笑しく、恐ろしい。
リードの憧れは暴力を伝ってチャッキーへと伝染する。攻守交替、邪魔っけなからだを売り歩く彼女は、冷たく無機質な、純粋なアイスピックのからだに魅惑される。
だからやはり、二人をたわむれさせ、すれ違わせることでからかっているのはアイスピックなのである。かつて花田清輝チャップリン映画を評して「人間がピンボールのように扱われるおかしさ」と書いていたが、本作は有機物が無機物に憧れを抱き、無機物が有機物を演じることの欲望を描いている。
ピンボールみたいに二人は、ぶつかり、跳ね回りながら、すれ違いのタイミングにおいてとうとうかち合う。
「その前になにか食べようか?」