触れられる火は消えた光 〜『鬼火』を見て〜

達成感なんているかそんなもの
俺は死んだら完成なんだ
ーーSyrup16g『実弾 Nothing's gonna syrup us now』


当たり前のことを研究するのはちっとも当たり前ではない。
カナダの西洋古典学者ピーター・トゥーヒーの『退屈 息もつかせぬその歴史』(青土社,2011)はそのことに改めて気付かせてくれる好著だ。「退屈なものはなぜ退屈なのか?」という疑問から発して、退屈と呼ばれる感情の本質に迫るスリリングな試みである。
昨今、哲学書やその威を借るビジネス書の分野において、暇・退屈・無為といった概念に倫理的価値を見出す思潮が流行しているが、本書はそうした流行に少なからず寄与しているように思う。人間たまには休息を!と改まって叫ばねばならぬこと自体、我々を取り巻く社会全体に余裕がなくなり疲弊しきっていることの証左だが、無論こうした価値観は一朝一夕に形成されたものではない。人々を幸福にするはずの生産システム自体に疑義を唱える思想は、哲学史において確たる位置を占めている。代表選手はなんといってもショーペンハウエルニーチェだろうが、死ぬまで生を呪詛し続けたルーマニアの思想家シオランの存在も忘れてはいけない。日本には唯一者・辻潤がいたし、ポルトガルには不在の詩人・ペソアが、バロック期のフランスには、神父の身でありながら「世界の起源は、無から己を救い出すよう懇願した無」だとする驚くべき思想を展開した怪人物フェルナンド・ガリアーニがいた。こうした精神は古代ギリシアの昔から連綿と受け継がれる哲学史の裏面とも言えるものだが、戦後ヨーロッパにおいて改めてその価値が検討されるに至った経緯は興味深い。戦争である。相次ぐ新兵器の開発が可能にしたかつてない規模の大量殺戮。ことに、二度の大戦中ナチス・ドイツによる侵略を経験し、不羈独立のフランス精神ともども蹂躙された“花の都”パリの姿は、多くの人々に反省の契機を与えた。“労働に励み、教育によって人間を条件付け、文明化を推し進めていけば、世界は必ず良くなる”という近代の理想主義が最終的に導いたものは、皮肉にも人類史上最大の破壊行為であったわけだ。
かくして原理の根本が疑われることになる。“進歩”という観念自体に、実は致命的な誤謬が潜んでいたのではないか……
大戦を通じて練り上げられたサルトルの思想・実存主義は、瓦礫の焦土と化したフランスにおいてゼロからアイデンティティを見出していくための切実な方法論であった。以降、サルトルを乗り越える形で登場した現代思想がフランスを拠点に盛り上がる一方、芸術の中心はパリから戦勝国アメリカのニューヨークへと移っていく。


前置きが長くなった。
ルイ・マル監督の名作『鬼火』(63)の主人公アラン・ルロワの人生にも戦争が暗い影を落としている。多くを語らない彼だが、周囲とのやり取りがおぼろげに来歴を明かす。青年時代をパリで過ごし華やかな青春を謳歌したが、軍除隊後は酒に溺れ、ニューヨークに移り無為な生活を送った後、現在はヴェルサイユの治療院に起居している。
7月24日。ルロワが自殺すると決めたエックスデイに向かう46時間が静かに映し出されていく。
ニューヨークに住む恋人の訪問、ベッドにてもの問いたげな瞳の交換が行われる。フランス映画的な、あまりにフランス映画的なまなざしの愛撫。覗きこみ、瞳の奥を探るような見つめ方はアメリカ映画には見られない神秘だ。
一夜明け、院長に退院を迫られる。“完治”したため、というのがその理由だが、ルロワを蝕む真の病はアルコール中毒ではない。
勧められるまま、パリに住む妻に電報を送り、誘惑待ち受けるかの街にいざ出発。最期の顔見世興行だ。かつての友人たちの現況はそれぞれ。エキセントリックなエジプト学の研究者だった過去に背き平凡な幸福に安寧する者。彼は言う。「君は大人になることを恐がっている」答えてルロワ「君が僕を親友と思うなら、そんなところも含めて愛してくれ」なっさけなー。しかし悲痛。男女が、男と男が(女と女、はあまりないように思える)どんどん移動しながら哲学的な議論を交わす独特の運動性がまたフランス映画的である。刑期を終えてなお懲りず政治活動に身を投じる者、周囲を虜にした美貌を生かし金持ちの俗物(この手の輩をフランス語では“スノッブ”と呼ぶ)と結婚した者。このスノッブ野郎に対しルロワが抱く印象が最高である。
「あの疑わなさ、あの落ち着き……がっペムカつく!」(大意)
要するに、彼に取って耐えがたいものは悪ではない。愛と幸福を疑わぬ普通の人々の普通の感性こそが憎くてたまらないのである。そんなものはもちろん言いがかりに過ぎないから、彼の言葉はだれにも届かない。
「みんなには女がいる。僕にはなにもない」
「大人になるには欲望がいる。しかし僕はなにも欲しくない」
「僕はなににも触れることができない」
ひょんなきっかけから世界をズレてしまった人間は、世界に再び触れることができなくなってしまうのだ。
サルトルの小説『嘔吐』の冒頭を思い出そう。歴史学を愛好する平凡な三十男アントワーヌ・ロカンタンは、道に落ちている新聞紙を拾うのが好きだった。ざらざらした感触がたまらない。ところがある日、突然の違和感とともに新聞紙に触ることができなくなってしまう。これこそ慣れ親しんだ世界からロカンタンが切り離されてしまった瞬間だった。以来彼はどこでなにをしても楽しめなくなり、深刻な存在の不安を経験する。
『退屈 息もつかせぬその歴史』において、著者であるピーター・トゥーヒーは退屈の種類を大きく“単純な退屈”と“実存の退屈”の二つに分類している。前者は一時的に暇を持て余したり束の間ぼ〜っとする状態を指し、多くの場合はっきりした原因を持つのに対し、後者は原因を特定できない精神的・慢性的な倦怠を指す。その代表例にトゥーヒーが挙げているのが『嘔吐』であることからしても、ルロワがロカンタンと同じ種類の実存の退屈に陥っていることは明らかだろう。ただし、トゥーヒーがおもしろいのは、クリエイティブな人が陥りやすいと言われるこの形而上の病の存在を認めつつも、冷静かつ辛辣な位置付けを試みている点だ。
“実存の退屈は感情でも、気分でも、感覚でもない。むしろこれは、強い印象を与える知的形式と考えるほうがよい。自分たちだけがとりわけおちいりやすいと、インテリが信じたがっている何かなのだ。” (217ページより)
“この二種の退屈がごちゃごちゃになった理由は鬱にある。鬱はこの二つをリンクさせているのだ。ひとつには、単純な退屈が癒されないまま慢性化した場合、鬱と退屈、狂気のサイクルにおちいるわけだから、そのサイクルの一端として鬱はある。他方、実存の退屈と名づけられたごたまぜ状態に、含まれうる要素のひとつとしても鬱はある。「退屈」と呼ぶよりもこの名で呼んだほうが、こちらの場合は正確だろう。” (215ページより)
つまりこう。
実存の退屈と呼ばれる症状の実際は、どう考えても単なる鬱である。従って医学的にはそれは存在しない。とはいえ、単純な退屈や鬱とは別様に捉えられてきた歴史がたしかにあるのだから、それは概念として存在するのだ。
科学的見地と文学的見地とをフラットに突き合わせた結果、トゥーヒーはおおよそ以上のような診断を下すに至る。これはなかなかに衝撃的な結論ではないだろうか?本書が楽観的な哲学書や凡百のビジネス書と一線を画して痛快なのはこの点である。
また、主人公ロカンタンによる告白が全編を覆い、外からの視点をほとんど欠いた(もちろん、それがこの小説の欠点だと言いたいわけではない)『嘔吐』と『鬼火』が異なるのも同じ印象にかかっている。かつての花形スター・ルロワの再訪を受けたパリの人々はみな大げさに歓迎の意を唱えるが、その癖、当人の姿が見えなくなるやひそひそ声で囁き出すのだ。
「昔はいい男だったのに見る影もない」
「アル中だ」
「鬱だな」
「彼は不幸なだけよ」
「結局は落伍者に過ぎない」
さりげなく、いや〜なリアルさ!
いくらかっこつけたところでてめえなんざイタいおっさんに過ぎねえ!という外部からの“現実的な”視点がきっちり挿入されているのである。


なにものにも触れることができないルロワに触れられる人間は、結局のところ存在しない。
さまざまな言葉を通じて向けられた愛や説得とはまったく無関係に(説得が失敗したわけではない。物語の最初からそれらが届かない場所に彼はいるのだ)ヴェルサイユの診療院に戻ったルロワは、自ら命を絶つ。心臓にピタリ銃口を当て、バーン!
一巻の終わり。


さて、現代を生きるわれわれはこの映画をどのように受け取るべきだろう。
実存の退屈に囚われた人間を静かに描く文学ドラマ?
戦争の後遺症に悩む人間の姿を浮き彫りにした社会派作品?
ええ歳こいて中二病のおっさんがイキり倒す笑えない喜劇?
はたまた深読みして、
パリとニューヨークという戦争の影響を蒙った二大都市を行き来する主人公の死に、哲学と芸術の歴史的道行きの暗示を見る?
どれも自由である。
医学的見地からして“正しい”のは二番なはずだが……


映画『鬼火』の主人公アラン・ルロワは、拳銃自殺した実在のダダ詩人ジャック・リゴーがそのモデルになっている。数少ないリゴーの文章は『自殺総代理店』(エディション・イレーヌ,2007)で読めるが、ここに並べられている透徹した言葉や思考に触れていると、やはりどうしてもトゥーヒーの身も蓋もない現実主義を否定してみたい気分になってくる。小著でありながら淡々と読者を自死へ導く(!)美しくも不可思議な本なのだ。今こそ叫ぼう。STAP細胞と実存の退屈は、あります!
いずれにせよ、リゴーの魂に触れられるのは彼が言葉を残したからだ。生前のルロワの姿が皮肉抜きの好意をもって語られるとすれば、それは彼が死んでもはや言葉を返さぬからであろう。芸術に関わる営みには少なからずこのような残酷性が潜んでいる。ルロワがたとえ死んだ火=鬼火として生きていたのだとしても、安心して触れられるのは火が消えた後であり、映画にせよ本にせよ、わずかに光り輝いた痕跡を辿れるに過ぎないのだ。


最後に音楽に触れておく。
使われているのはサティの「ジムノペディ」と「グノシエンヌ」。サティの音楽の魅力といえば、故・伊福部昭の指摘通り余計な感傷を排した音の運動自体にあると言われることが多いが、この種の評価には昔から違和感が拭えなかった。なんとなれば、ジムノペディとグノシエンヌほど感情に訴える曲が他にあろうか!?
従って、これまた大方の評価とは反対に、『鬼火』にこの二曲が流れることはやや感傷過多で余計なようにも感じられた。サティの音楽が持つイメージ喚起力の強さを改めて認識した次第。とはいえ、このように感じられるのは僕自身が感傷的な人間だからなのだろうか?
またしてもトゥーヒーとリゴーが対立してしまうのである。

 

人間がほどけてゆく記録 〜『マックイーン:モードの反逆児』に寄せて〜

だいたいほとんどの人は服を着たり脱いだりする。不思議だ。服が人間を着たり脱いだりしてるのではないか、と思うこともある。
外に出る、というのは大変な冒険で、裸のままでは出られない。体に服を着せ、心に感情を纏って、行く。行ったら帰ってくるのがふつうだから、着たり脱いだりする。毎日。
毎日毎日。
服がほつれるように人間がほつれることもある。



ナイマンの音楽はマックイーンのお気に入りで、二人には親交もあったそう。ショーを見れば一目瞭然、モダン・バロックの探求者として大いに通じる部分がある。
バロックは“歪んだ真珠”という意味の美術用語で、過剰や欠損を抱くある種のいびつさや、反対物の衝突によって生まれるドラマに美を見出す態度をいう。その特徴は聖なる人殺し画家・カラヴァッジョの絵画にあらかた表出していると言っていいだろう。光と影の極端なコントラストのもとに描き出されるのは、生と死、美と醜、純真と悪徳といったモチーフの対決であり、見る者に是非を問わずにはおかない。ぼんやりした賛意より、むしろ剥き出しの敵意の方を歓迎する姿勢こそバロックなのだ。
マックイーンは言う。
「観客になにかを感じさせることができたら僕の仕事は成功なんだ。称賛でも否定でもどっちでもいい」
「セックス・ドラッグ・ロックンロール、それが僕のショーだ。興奮させ、鳥肌を立たせる。僕が求めるのは心臓発作であり、救急車だ」
彼が許せないのはほどほど、まあまあ、そこそこということである。
「嫌な気分になった?」
「いいえ」
「それは残念」
好きか、嫌いか。
曖昧を避けいずれを問う姿勢は魂の政治学だ。わけて、ぶつけて、火花散らす。そのただなかに身を置かずにはいられない。
マックイーンはあらゆる二項対立の間のスラッシュになることを望んだ。
好き/嫌い 
美/醜
ファッション/モダンアート
ビジネス/芸術
デザイナー/エンジニア
エレガンス/サヴェージ
オブセッション/ショーアップ
そして、生/死
さまざまなレベルでの衝突を生む根源は、いつの日かマックイーンという人間内部に生じた亀裂、服と冗談を愛する青年・リーと伝説的なファッションデザイナー・アレキサンダーとの衝突にほかならなかった。
映画は言う。
「私たち制作陣は、アレキサンダー・マックイーンというブランドの背後にいるリー・アレキサンダー・マックイーンという男に興味を持ったんだ。“リー”と“アレキサンダー”の間にはいつもある種の緊張があるように思えた」 (公式パンフレットより)


なにかしら演技をする者に要求されるのは、役とともに遠くまで泳ぎ、深く潜ることである。だが注意しなければならない。水を吸い、重くなったからだは脱げなくなり、自分をふたたび着ることができなくなってしまう。
着たら脱いで。
脱いだら着る。
それがルール。
16歳からロンドンの老舗テーラーで修行をはじめ、デザインからパターンや裁断・縫製に至るまであらゆる技術をマスターしたマックイーン。自他ともに認める服のスペシャリストであったはずの彼が見落としたのは、バカみたいに単純なルールだった。


例えば、ナイマンとの蜜月、音楽と映像の濃厚なマリアージュで知られるピーター・グリーナウェイはどうだろう?カラヴァッジョの伝記映画を撮ったデレク・ジャーマンは?
ファッションである。あんなものは計算され尽くした完璧なファッションに過ぎない。これが「アートではない」という意味の批判に聞こえるなら、ファッションショーは映画より劣るのだろうか?

マックイーンのショーは、一見するとグリーナウェイの極めつけに露悪的な作品『コックと泥棒、その妻と愛人』に似ているように思える。だが、表現者として近いのは草間彌生だろう。意識の奥底に沈み、トラウマとなって固着した記憶を作品に昇華することで祓う。初期を代表するコレクション『ハイランド・レイプ』のテーマを“女性蔑視”と非難するのは、草間の絵画に見られる男根モチーフを“色情狂”となじるも同然である。事実はむしろ逆で、中にあって、耐えられないから、外に出すのだ。マックイーンの方法はエクソシズムとしてのアートである。


5つの章から成る本作では、各章の冒頭でスカルのオブジェが映される。これはマックイーンの甥であるゲーリーによるデザインで、ルネサンス絵画に特徴的な主題“メメント・モリ(死を想え)”が反映されているという。
ルネサンス期の思潮が興味深いのは、ギリシア美術にならってプラトン的な理想の肉体美を称揚する一方、老人や病人のみすぼらしい体に激しい嫌悪を抱いた点だ。どんなに若く着飾ったところで死んだらみんなこれ、と画中に置かれるドクロはひょっとして意地悪いバランサーだったのか。
化粧を落とし、服を脱がせ、肉を剥ぎ取れば、どんな人間も一個の骸骨。だが、マックイーンの功績は、たかが骸骨を飾り立てる抵抗こそがファッションであり、生きることなのだと開き直った(いわば、メメント・モリを反転させた)ところにあるのではないだろうか。
ブランドの重要アイコンでもあるスカルは、金色に、薔薇色に、緑の鱗状に装飾され、血にまみれる。蝶や蛾、色とりどりの花やハヤブサを着る。


生涯を通じ、容貌魁偉な人間や不具者をモデルにしたピーター・ウィトキンの作品と、やはり本質的な双子だ。
彼もまた、身体的・精神的な欠損を花や鳥、虫たちの過剰な息吹で彩り、新たな生命サイクルのなかで呼吸させた。
美術史のあからさまな引用は思わせぶりをきらうバロックの方法論だが、マックイーンの場合、部外者の特権も大きいだろう。彼が学んだセント・マーチンズ美術大学の教師は語る。
「彼は本や映画といった芸術を全然知らなかった。だから余計なフィルターを通さず楽しめるのよ」
若き日のマックイーンは、服以外のところから服作りの霊感を得るやり方を知って大きなショックを受けたともいう。
美術史を専門に学んだ人間に取り、好きな作品であればあるほど直接的な引用には含羞がつきまとうもの。本気でロックを愛する人間が、すっかり人口に膾炙し“ファッション”となったローリング・ストーンズニルヴァーナのTシャツをおいそれとは着られないように。その点、他に専門分野を持つ者の受容はゆるやかである。
恥ずかしげもなく堂々とアートを援用するマックイーンの姿は、ヒップホップ界のレジェンドKOHHがなんの衒いもなくウォーホル・デュシャンといった固有名詞を使う身振り同様、かっこよく、うらやましく映る。二人に共通する特質がもうひとつ。まばゆいばかりの無邪気さだ。


映画は約二時間。
終わりに向かうにつれ、無邪気さがすり減っていくことが悲しくてたまらない。皮肉な笑いのセンスは父親譲りだそうだが、人間、皮肉のひとつも飛ばせなくなってしまってはおしまいだ。
こころとからだは同時に痩せ細っていく。死せる骸骨は着こみ、生きているマックイーンは脱ぎ捨てていく。
「仕事を放り出すなんてできないよ。僕は50人の従業員を抱えてるんだ」
最後まで脱げなかったのは一番お気に入りの服、アレキサンダーという名の一張羅だった。
ずっとずっと中にあって、こわいから、取り出してみた。おそるおそる着てみたら、これがピッタリ。ハマってる。だんだん脱げなくなっていった。

すべてのスラッシュは、本当は縫い合わせるための針だったのかもしれない。しかし望まれたのは融合ではなく対決であり、バロックの病が天才的な無邪気によって乗り越えられた(そこがナイマンやグリーナウェイ、他の誰とも異なるマックイーンの個性だ)時代は終わりを告げた。スラッシュが消滅すると同時に、からだは糸のようにほどけていった。
一人の人間がほどけてゆく記録は、ファッションという営みの根源にまで遡る。

 

映画『ミツバチのささやき』評 ~ユウワクするむこうがわ~

みなみ会館で『ミツバチのささやき』見てきた。みなみ会館ミツバチのささやき、といえばささやかな因縁があり、その昔ご好意でチケットを譲っていただき、調子に乗って遊び倒して見に行ったら、冒頭からきれいに寝たという(笑)

後にも先にもあれほど極楽な睡眠体験はなかった……じゃなくって、いいですか!今回はリベンジマッチなんですよ!

というわけで映画『ミツバチのささやき』の感想をつらつらと。 まず、これは奇跡的なバランスの上に成り立った傑作ですね。素晴らしいです。

見事寝倒したてめえの黒歴史に加え、大槻ケンヂの名エッセイ『変な映画を見た!』でオーケンもまた寝倒した事実を知るに及び、ビクトル・エリセなんかクソだ!と開き直っていたこの僕こそがキングオブクソでした。

うーんしかしちょっと、どこからどう手をつけるべきかためらう映画でもありますねー。 例えば。父親の部屋に飾られた絵画(執拗に注意喚起される)と、娘部屋にある絵画との比較から、イコンと宗教学を絡めていく道もあるし、全体を心理的なホラーと捉え、“怪物としての子供”を跡付ける道もある。

とりあえず冒頭から追ってみるね、『ミツバチのささやき』。 舞台は1940年、スペインのとある小村。内戦終結後の荒涼とした風景のなかを一台のトラックがやって来る。はしゃぎ回り、群がる子供たち。お待ちかねの映画興行がやってきたのだ。

「今までやった中の最高傑作だよ!」しゃがれ声の興行師が触れこむ。映画はフランケンシュタイン、双子の姉妹アナとイサベルもくいいるように見入る。フランケンシュタイン博士に創造された名も無き怪物は、無垢な少女と出会うことで人間性に目覚めるが、最後には少女を殺してしまい、自身も討たれる。

妹のアナはそっと姉に尋ねる。「どうして女の子殺しちゃったの?」わずらわしさ半分、姉のイサベルが返す。「あとで教えてあげる」 純真無垢であまえんぼうのアナ、やや大人に差しかかり始めたしっかり者のイサベル。早くも見て取れる二人の関係は、全編を握るひとつの鍵になる。

映画を終えて眠りにつく頃、アナはベッドで同じ疑問を繰り返す。「後で教えてくれるって言った!」困ったイサベルはとっさの作り話を思いつく。「女の子も怪物も、ほんとは死んでないのよ。あれは映画だから。怪物は生きてるの。会ったことだってあるわ」

そして怪物は生き始める…… 二人を取り巻く人達。父親は養蜂家、ガラスケースに入れた蜂の巣を観察する。「蜂たちのメカニズムは神秘的だ…」 一家の部屋の窓には蜂の巣と同じ六角形の飾り格子が付いており、その中に住む人間もまた蜂と同じ集団の不合理な関係性に左右されることが示唆される。

憂鬱な表情でだれかに手紙を書く母親。内容から、いまだ戦争から帰還せざる息子に向けたものだと知れる。この映画において母の存在は最初から最後まで気薄で、頼りなげに映る。それはおそらく、息子の消息を思うあまり彼女が自分のために生きることをやめてしまったからだろう。

父親の部屋に飾られた絵。老いた賢者が積み上げられた書物を前に肘をつき、放心したように頭上を仰いでいる。横には頭蓋骨。これはルネサンス期に流行したヴァニタス(虚栄)絵画のパターンだ。本は叡智の象徴だが、いくら知性を磨こうとも、肉体は必ず滅びる。死を想え、というメッセージなのだ。

この一枚の絵を、キャメラは幾度も強調して映し出す。ラストシーン。机に突っ伏して眠る父親の姿は、背後にある絵の老人とほとんど同じ構図になっている。なにをかいわんや…

双子の部屋にある絵画の主題はなんだろう?幼子キリストの手を引く天使?違う気がする… いずれにせよこの映画は、怪物が女の子を、幻想が現実を、ディオニュソス的混沌がアポロン的理性を連れ去るお話なわけだが、この点を注釈するには目と井戸の対比を持ち出さなければならない。

理科の授業なのだろう、人体模型を持ち出して先生「最後に足りないパーツはなに?」正解は目だった。アナがパネルを嵌めると、人体模型の目がクローズアップされる。 目。これこそ近代精神の象徴だ。啓蒙enlightenmentとは、目に見えないものが見えるように光を当てることなのだ。

見えないものが見えるよう、わからないものがわかるよう、視覚の技術を更新し、言葉でもって名前をつけ、近代は、畏怖すべき崇高な自然から暗闇と恐怖とを追放してきたのだ。世界の中心軸を神から理性に取り替えつつ。 その姿は、神から火を盗んで罰されたプロメテウスを彷彿とさせる。

フランケンシュタインは、もともとメアリ・シェリーが生んだ小説だが(冒頭で上映されるフランケンシュタイン映画に出てくる女の子の名前は、だからメアリという)、この小説には実は副題が付いている。曰く、“現代のプロメテウス”。

つまり、神にしか許されない人間の創造行為に手を出してしまったフランケンシュタイン博士の不遜こそがプロメテウスであり、怪物はいわばその懲罰として生まれた存在なわけだ。フランケンシュタイン映画の恐さとは、近代的理性に化け物じみた前近代が殴りこみをかけるところにある。

だからもちろん、本作における怪物も単なるモンスターであるはずがなく、前近代的なもの=野蛮かつ不気味なエネルギーの総体を指している。そこで象徴的なのが、怪物が隠れている家にある井戸だ。井戸の深さ暗さは、まさに啓蒙の光が当たらぬ邪悪の湧いて出るところなのである。

かてて加えて、目は身体の最上部にあり、井戸は地面を掘り下げて作られる。精神分析学的な枠組みを持ち出すまでもなく、不気味なものはいつも下からやってくるのだ。

と、ここまでは自明として、しかし本作はなお我々に疑問を投げかけ、誘惑するのをやめない。 本当は双子のうちのどちらが(先に)向こう側へ行ったのだろう?いつどのタイミングで行ったのだろう?あるいは家族の全員が…? というような。

実際、蜂の巣よりも神秘的で、何度も見返したくなる映画こそ『ミツバチのささやき』なのでした。